4月号
映画をかんがえる | vol.37 | 井筒 和幸
80年代が幕を閉じても、ボクはまだ世間でいう大人にはなっていなくて、少年の続きのままで現実を忘れようと映画ばかり観まくっていたようだ。「平成」に変わった年から雑記帳として使っていた、“映画は夢”と表紙に書いた大学ノートのページをまた繰っている。よくもまあこれほど毎日、日課のように劇場やビデオやテレビ放映であらゆる類いの映画を観ていたものだと感心してしまう。と同時に、そんなに毎日が暇だったのかと呆れてしまう。
平成になって、如何にもハリウッドらしい『ダイハード』(89年)が現れて、封切り館で観ている。メモには「文句なくおもろい展開。この手の勧善懲悪にハリウッドは戻るつもりなのか。」と皮肉交じりに書いてある。予感どおり、翌年からシリーズになった。ブルース・ウィルスという新顔の特異な表情と体当たり演技はすぐに彼をスターに押し上げたが、その後、ボクは彼を見ることもなくなっていた。俳優は同じような役ばかり受けていると、役になり切る「役者」を目指さなくなる人もいるが、ブルースは認知症を患い、引退してしまったのは残念だ。
ボクは映画を観るか作るか以外、何の趣味も無く、映画体験のついでに生きるような日々を過ごしていた。そんな人生観をもったきっかけは、64年の東京オリンピックの熱狂が去った中学1年の終わりに、父親と大阪梅田で待ち合わせをして、OSシネラマ劇場でアメリカ映画の巨編、『バルジ大作戦』(66年)を見て打ちのめされた時からだ。シネラマ上映という今のIMAX以上に湾曲に広がった巨大な銀幕に映し出されるアルデンヌ高地の戦場スペクタクルに圧倒されたのは勿論だが、ボクが眼にしたのは「戦争」と「平和」だけで、それ以外にこの世には何も無いという「無常の世界」だった。それ以来、ボクの生きる目的は、自分の日常がどうあろうが、何の職に就くことよりも、人のありようや世界のありさまを隅々まで見つめていくことだった。その為の手段が映画だったというわけだ。
小学5年だったか、『バルジ大作戦』のもっと前に、喜劇役者が大挙して出た東宝の「駅前シリーズ」の『駅前茶釜』(63年)は、大人たちに混じってボクも笑いっぱなしだった記憶がある。お伽話の「ぶんぶく茶釜」から想を得た、田舎町のお寺に伝わる茶釜を巡って本物か偽物かと町中が大騒ぎする話だ。フランキー堺や伴淳三郎、アイドル娘の中尾ミエは歌を唄い、新人のジャイアント馬場までが確か、下宿学生役で出たコメディーで、大人の私欲やいい加減さも見えて、子供なりに学ぶこともあったが、でも、それは虚構の中の世界だった。
人間のありようが映っていたのは『ネバダスミス』(66年)あたりかもしれない。メモに「マック的な役者は日本にいない」とある。このスティーブ・マックィーンの西部劇は少年時代に観た一番感慨深い作品だった。一世代上の大人が観た『荒野の七人』とはボクは縁が無いが、マックは白黒テレビの『拳銃無宿』のガンマン役しか知らなかったので、初めての銀幕での印象感は格別だったのだ。これを何十年も経ってから見直したのはただの娯楽モノじゃなく、人間の我欲、罪と罰を哲学させてくれたからだ。ネバダの片田舎で慎ましく暮らす父と先住民の母が殺され、敵を討つ旅に出て流浪する息子の心情が描かれていた。マックは根っからの俳優だ。人生の孤独が笑顔の中にも滲んでいて、あのクールさは誰も敵わない。C・イーストウッドと同い歳のライバルだったが、‘80年に50歳で早逝した。少年の頃に両親と別離し、悪さをして矯正施設に入れられた。サーカス団やギャング団にも加わり、売春宿の掃除係や石油掘りもしたり…。その経験は俳優稼業にすべて生かされたようだ。ノートに、「‘74 『パピヨン』はリアリズムの極致、マックの黒い歯のメイクは見習うべき。‘67 『砲艦サンパブロ』は無我夢中の演技。日本人のマコ岩松も全身熱演」とある。
役者稼業に命を懸けた俳優たちを思い出すと切なくて胸が詰まる。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。