9月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊶前編 加藤文太郎
六甲で鍛えた孤高の登山家…山岳魂は縦走大会へと引き継がれ
〝単独行の文太郎〟
約半世紀にわたりほぼ毎年、神戸市主催で行われてきた市民参加の人気の登山イベントがある。大会名を「KOBE六甲全山縦走大会」という。同市須磨区の須磨浦公園から宝塚市の宝塚駅まで全約56キロのトレイルコースをひたすら歩く、歴史ある伝統行事だ。
標高約700メートルの摩耶山や標高約930メートルの最高峰など十数峰の山越えが待ち受ける過酷なこの〝縦走路の生みの親〟が、兵庫県浜坂町(現在の新温泉町)出身の登山家、加藤文太郎(1905~1936年)だ。
文太郎は1905年、浜坂町で生まれ、地元の尋常高等小学校を卒業後、三菱内燃機神戸製作所に就職。神戸で働き始めた彼は23年頃から登山を始めるが、この登山のトレーニングのために彼が選んだルートにちなみ、企画され始まったのが、この縦走大会なのだ。
彼は〝稀有な登山家〟として、その名を知られるようになったが、それはなぜか?
登頂に何日も費やす難所の登山では通常、パーティーと呼ばれるチームを組んで山頂へのアタックをかけるのが一般的な登り方だが、文太郎は違った。当時、多くの登山関係者から「無謀だ」と批判されたが、彼は日本を代表する山岳家がパーティーを組んで挑んでも困難な日本アルプスなどの険しい山々の山頂を、単独で次々と踏破していったのだ。
そこで付けられた呼び名は〝単独行の文太郎〟。
この一匹狼のような文太郎の生きざまをモデルに、作家、新田次郎は半世紀前の1969年、一冊の山岳小説を世に発表した。
現在も、山に挑む子供から大人まで幅広い層から熱烈に支持される、このロングセラー小説が「孤高の人」(新潮文庫=1973年)だ。
六甲での修行
小説「孤高の人」の中にこんな描写がある。「六甲全山縦走大会」のコースの途中にある山の一つ、標高約320メートルの高取山の頂上へ辿り着いた若者が一人の老人と出会う場面。老人は若者に「加藤文太郎」の話を切り出すが、若者はその名を知らない。
《「加藤文太郎というと?」
若者はやや首をかしげて聞いた。
「不世出の登山家だ。日本の登山家を山にたとえたとすれば富士山に相当するのが加藤文太郎だと思えばいい」》
この言葉に衝撃を受けた若者は文太郎について、もっと教えてほしいと頼むと老人はこう続ける。
《…加藤は生まれながらの登山家であった。彼は日本海に面した美方郡浜坂町に生れ、十五歳のときこの神戸に来て、昭和十一年の正月、三十一歳で死ぬまで、この神戸にいた》
そして、老人は、文太郎が挑んだ「六甲全山縦走」の全容について語り始める。
《彼はすばらしく足の速い男だった。彼は二十歳のとき、六時に和田岬の寮を出て塩屋から山に入り、横尾山、高取山、菊水山、再度山、摩耶山、六甲山、石の宝殿、大平山、岩原山、岩倉山、宝塚とおよそ五十キロメートルの縦走路を踏破し、その夜の十一時に和田岬まで歩いて帰った。全行程およそ百キロメートルを十七時間かけて歩き通したのだ》
コロナ禍、中止されていたが、昨年11月、3年ぶりに「2022 KOBE六甲全山縦走大会」が開催され、15歳から79歳まで、全国各地から1537人が参加した。
文太郎が1925年に初めて敢行したこの縦走登山は、その半世紀後の1975年、(片道のコースで)第1回大会として甦り、昨年48回目を迎える神戸の伝統行事として定着した。今年も11月、第49回大会が開かれる予定だ。
小説「孤高の人」に戻ってみよう。
文太郎の「足の速さ」に驚いた若者に、老人はこう付け加えて説明する。
《…だが人間的にも、彼は他の追従を許さぬほど立派な男であった。彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった》
こう書いた作家、新田自身、屈強な登山家として知られる。新田を知るために彼の次男、数学者でエッセイストの藤原正彦氏の自宅を訪れ取材したことがある。新田が「孤高の人」を始め、どうやって山岳小説の名作の数々を執筆していたかを知りたかったからだ。
藤原氏は、息子の目でとらえた父、新田の執筆の日々、その姿を教えてくれた。
それは「孤高の人」で老人が若者に語った文太郎のような壮絶な生きざまと重なった。
藤原氏はこう語り始めた。
「父は山岳小説を書く前、主人公が登った山を実際に自分の足で登っていた…」と。新田の目を通じ、文太郎の登山家としての人生を浮き彫りにしてみたい、と思った。
=後編へ続く。 (戸津井康之)