8月号
早逝の女流作家 久坂葉子はとまらない|vol.1 偶然の出会い
作家・久坂葉子のことをご存じの方は、今、どれくらいいらっしゃるだろう。『月刊KOBECCO』の読者諸氏なら、あるいはよくご存じかもしれない。
川崎重工の創始者の曽孫で、男爵家の令嬢。詩や絵や音楽の才能にも恵まれ、十九歳で芥川賞の候補になって、二十一歳の大晦日に阪急六甲駅で飛び込み自殺をした美貌の女性。別名〝女太宰治〟。
私は若いころ、久坂葉子の追っかけで、彼女の作品を読みあさり、彼女の師匠でもあった作家の富士正晴氏を訪ね、富士氏が主宰し、久坂葉子も所属していた同人雑誌のVIKINGの同人にしてもらい、彼女の終焉の地、阪急六甲駅の近くに三年住んだ。
久坂葉子との出会いは、私がまだ医学生だったころ、たまたま入った紅茶専門店「ムジカ」で、彼女が描いたスケッチを見たことにはじまる。
私が通っていた大学は、一九七七年当時、大阪中之島にあり、「ムジカ」も近くの北区堂島にあって、級友たちとよく紅茶を飲みに行った。店の壁には世界中の紅茶のラベルが隙間なく貼ってあり、何気なく見ていると、中に黄ばんだ紙に描かれた落書きのようなスケッチが二枚あった。花や鳥、魚などの絵だが、いずれも迷いのない闊達な線で、一気に描いたものだった。
もともと絵が好きだった私は、店の人に「だれの絵ですか」と聞いてみた。「久坂葉子という女流作家で、戦後、二十一歳で飛び込み自殺をした人です」と教えてくれたが、そのときはさして興味も湧かず、「そうですか」で終わった。
ところが六年後、朝日新聞の夕刊に、片手で片目を押さえた女性の絵の写真が小さく出た。その線を見た瞬間、「ムジカ」で見たスケッチの線と同じだと思った。果たして記事は久坂葉子についての内容で、「芥川賞候補作家の自画像」と題され、彼女が十九歳で芥川賞候補になったことや、VIKINGという同人雑誌に所属していたことなどが書かれていた。
記事の末尾に神戸に「久坂葉子研究会」という団体があり、『久坂葉子研究』という本も近々出ると書いてあった。私はさっそく研究会に葉書を送り、本の購入を申し込んだ。
しばらくして送られてきた本を見ると、久坂葉子の写真や遺品の写真、未発表の小説などが収録されていた。この本を読んで、私は彼女が「幾度目かの最期」という小説を書き終えたその日に、飛び込み自殺をしたことを知り、衝撃を受けた。
「幾度目かの最期」は十代のころから死に惹かれていた久坂葉子が、自らの死を決定づけることになる人間関係と恋愛の破綻を描いたもので、私が「ムジカ」で見たスケッチのことも書かれていた。
『喫茶店の主人が、いたずらがき帳を持って来てくれました。何かかいて下さいと。私はホットウイスキーをのんでいたし、多少、私の死と結びつけて考えられたので、いたずら書きをしました。いつもの皿に絵をかく調子で、さらさらと、海の中のと、花鳥の群とを』
絵には18/12の書き込みがあり、12月18日、すなわち久坂葉子が自殺を遂げる十三日前であることがわかる。学生時代に私が見た黄ばんだ紙のスケッチは、彼女が自らの死と結びつけて描いたものだった。
私は改めて「ムジカ」に行き、店主の堀江敏樹氏に頼んで、そのスケッチをコピーさせてもらった。当時、カラーコピーができるのは、近隣では紀伊國屋書店の梅田本店くらいしかなく、私は堀江氏から借りたスケッチの原本を胸に抱え、雑踏の人にぶつからないよう、緊張しつつ紀伊國屋書店まで歩いた。コピーは一枚千円くらいで、時間も三十分以上かかるという大仰なものだったが、仕上がりは実物大の写真のように上質だった。それがここに掲載したスケッチである。
今も懐かしい思いが込み上げる。このエッセイ欄をお借りして、しばらく久坂葉子について語らせていただくことにしよう。
PROFILE
久坂部 羊 (くさかべ よう)
1955年大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。外科医・麻酔科医として勤務したあと、在外公館の医務官として海外赴任。同人誌「VIKING」での活動を経て、2003年「廃用身」で作家デビュー。2014年小説「悪医」で第三回日本医療小説大賞受賞。近著に「寿命が尽きる2年前」「砂の宮殿」がある。