8月号
有馬温泉歴史人物帖 〜其の伍〜 柘植龍洲(つげりゅうしゅう)
1770~1820年
前回ご紹介した足利義稙の頃から続く武家社会の騒乱は江戸幕府ができ終結しますが、信長でも秀吉でもなく家康が〝天下餅〟を喰ったのは結果的に長く生きていたからではないかと。死んじゃったらどうするもこうするもないですしね。
長寿だった家康は健康に心を砕いたそうで、その影響か江戸時代になると庶民にいたるまで健康に感心が高まり、健康のためなら死んでもいい!という人もいたとかいなかったとか。しかも家康は温泉好きで、熱海がお気に入り。神君家康公に習ってか大名や幕臣も温泉保養に通い出し、それが下々へと広がる訳で。
そんな頃に後藤艮山なる医者が、温泉は病気の治癒に効果があると〝医学的〟に論じ、中でも城崎が一番の名湯だと言い出します。そしてその愛弟子、香川修徳が『一本堂薬選』続編に「城崎新湯こそ日本一の温泉!塩辛すぎて色のついた有馬は飲むと下痢するから毒」とまで書いちゃいます。実は…姫路出身の修徳は若かりし頃有馬を訪ねて「〝医学的〟に有馬を推薦してやるぞ!」と持ちかけますが相手にされなかったそうで、その私怨もあったのかも。でも、この『一本堂薬選』は広く読まれ、ミーハー湯治客はこぞって有馬から城崎へ鞍替え、有馬は窮地に…。
そんな頃、大和高取藩の藩医で回虫研究の大先生、柘植龍洲がたびたび有馬へ来ておりました。そこで兵衛元式ら宿の主人たちが龍州に修徳への反論を依頼したところ、これを引き受け『温泉論』を記します。
そもそも修徳が城崎推しだったのは、泉温が熱いほど良いという論理から。でも「熱すぎるときは冷水を注げ」とか、笑っちゃうようなことを書いてるんですよ。それに対し龍洲は『温泉論』で「効能を泉温だけで評価するのはナンセンス!大切なのは温泉の成分」と現在の常識になっている説を展開し、薄い塩気しかない城崎より塩分や金属成分が濃厚な有馬の方が良いとキッパリ。
また、この頃有馬の湯はぬるく薄くなっていたのですが、龍洲はその原因を水の混入にあると察し泉源の改修を提案します。しかし「秀吉公の遺訓だから…」とみな消極的。そこで龍洲は有馬へ馳せ参じ、宴席でもてなそうとした人たちに「この有馬存亡の危機にそんなことしてる場合か!」と一喝して、いつやるの?今でしょ!と説教。これに心を動かされ、温泉街をあげて100人ほどが昼夜交代で泉源をメンテナンスすると熱く濃い湯が甦り、それが明治まで続き客足も戻ったと伝わります。
そんな龍洲の功績は、いまも金の湯前の「日本第一神霊泉」碑に刻まれています。この碑文を記したのは龍州の息子、柘植葛城の師である頼山陽と心通わせた清の文人、江芸閣です。