6月号
映画をかんがえる | vol.27 | 井筒 和幸
振り返ってみれば、1985年は世の中全体が浮足だっていた時代だった。この年の流行語は大学生が飲み会で囃し立てる「イッキ!イッキ!」や「キャバクラ」で、「おニャン子クラブ」という女子集団が夕方のテレビに出現し、「オレたちひょうきん族」も茶の間の笑いを独占していた。小松左京の『首都消失』というSF小説は虚栄と肥満の東京が、突如現れた謎の巨大な雲でパニックを引き起こすさまを描いていた。
ボクの方は、「イッキ」も「ひょうきん族」も流行りには見向きもしないで、ひたすら自分流の映画を撮りまくって、そして、新作だろうが旧作だろうが洋画を中心に映画館に逃げ込む日々だった。テレビの中の軽佻な娯楽に気がいかなくなったのもこの頃からだ。60年代半ばの中学生の頃から、映画に心を奪われて以来、人生の友は銀幕の幻影の他にはなかったのだ。85年は京都太秦の東映撮影所に、大映撮影所にと、ほんとによく出向いたものだ。自分がイメージした画面をなるべく変形しないように壊さないようにして、フィルムに写し撮っていく。この頃の撮影現場は一番愉しくて充実していたように思う。撮影所の若い大部屋俳優らと大食堂で喋っていたのもまるで昨日のようだ。ボクが「『ゴッドファーザー』(72年)の、あのハリウッドの金持ちプロデューサーの邸宅のベットに放り込まれた馬の首は美術部が本番寸前まで冷蔵庫に入れて用意しておいた本物なんやぞ。演技も一緒や。何でも本物でいかなあかんねん、お前の今日の殺陣、あの斬られ方はまあまあリアルやったけど、表情に痛みをもっと出さんとあかんぞ。ゴッドファーザーの長男ソニーが」と言い出すと、一人が「はい、ジェームス・カーンでしょ。料金所に乗ってきた車を停めた時にバリバリ撃たれるとこでしょ」。で、ボクが「そうや、あのソニーな、アメ車やから運転席は左側やろ、そやのに、右斜めから機関銃で一斉射撃された時、奴は思いっ切り苦しい表情で悶えながら、既にもう何十発も撃ち込まれてる最中なのに、なんと、左席から尻ごと身体を悶えさせて右の席に移しながら、なぜか右のドアを開いて、もんどり打って外に出て、地ベタに仰向けに寝っ転がるまでやってみせたんや。あの右方向からの機関銃でリアルに演じるなら、車の中でハチの巣になって終わったはずや。そこが違うんや、あのジェームズ・カーンの演技と監督コッポラの力業や。見習わんとな…」と。すると、大部屋俳優の一人が早速に食堂の椅子を運転席に見立てて並べ、左席から苦しみもがきながら右の床に倒れ出る演技を始めたのだ。皆から「全然、リアルやないわ」とからかわれて笑い合ったのを思い出す。
また、撮休日には皆でホテルのプールに遊びに行ったり、帰りに映画館にも行った。観たのはSFホラーの『スペースバンパイア』(85年)だ。地球に侵略してきた宇宙生命体が全裸の美女に豹変して、次々に人間にキスを迫って精気を吸い取り、増殖してロンドンの街を恐怖に陥れる話だった。何気なく観たわりには飽きなかった。監督がB級ホラーの鬼才、『悪魔のいけにえ』(75年)のトビー・フーパーだったからだ。エイリアンがエロスを武器に襲ってくるとは予想してなかったので余計に愉しかった。
見終わって、皆で呑みに行った。この原題は「LIFEFORCE」だ。ボクが「ライフフォース、生命力ってことか。宇宙吸血鬼はダサいよな」と切り出すと、ちょっとトボけた大部屋の先輩が「オレ、この間、百万遍にあるいい感じの店に女の子に連れてってもらって。なかなかシブいカントリーの歌手が生演奏で唄ってくれて、店のママもあの宇宙人の女に負けんくらいのグラマーで歌も上手で。監督、今度、あのライフフォース、行きましょ」と。そこに横から若い一人が「先輩が行ったのは、ライブハウスやろ」と。この時は全員でひっくり返って笑ったもんだ。その先輩や若い役者のその後は知らない。愉しい大部屋俳優たちと過ごした、いい時代だった。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。