3月号
明治36年創業 地元で愛され続けて120年 駅弁を通して神戸や兵庫の“食”を発信し、 地域に貢献
株式会社 淡路屋 代表取締役社長
寺本 督さん
「ひっぱりだこ飯」「あっちっち但馬牛すきやき弁当」など数々のヒット商品を送り出す駅弁でおなじみの淡路屋が創業120周年を迎えた。創業のきっかけから、愛され続ける商品の開発について寺本督社長に伺った。
辻占いが大当たり?
─淡路屋が駅弁を売り始めたきっかけは。
寺本 創業家はもともと、大阪の曽根崎新地で「淡宇」という料亭を営んでいましたが、阪鶴鉄道が大阪から舞鶴へ向けて線路を延ばしていくようになり、そこの構内で弁当を売りはじめ淡路屋を創業したのが今から120年前、明治36年のことです。
─阪鶴鉄道はいまのJR福知山線の前身ですね。
寺本 最初は大阪でつくって車内で売っていたのですが、後に上り列車でも下り列車でも売れるようにと伊丹に調理場をつくり、その後、駅弁を池田駅、生瀬駅、福知山駅や園部駅で売りました。池田駅はいまの川西池田駅で、阪鶴鉄道の本社もあったのですよ。
─それにしても料亭から駅弁へと大胆な転身ですね。
寺本 明治30年頃、東大阪にある瓢箪山稲荷神社の辻占いがよく当たると一世を風靡して、全国からたくさんの人々が集まってきたそうなんですが、初代と共に創業した二代目寺本清蔵が占ってもらったところ、「最新鋭の鉄道に関する商売をしなさい」と言われたと、記録に残しているんです。このことがきっかけで創業したとは思いませんけれど、結果的に120年も続いているのですから占いは大当たりです(笑)。
─当時はどんなお客さんが買っていたのですか。
寺本 当時は2つ大きな柱がありました。1つは旅行客の個人客です。当時の生瀬駅は有馬温泉の玄関口ですので賑わったんですよ。そんな行楽客に喜んでもらえるよう、武庫川など沿線でとれた鮎を姿寿司にして魚の形にした折りに詰めた「鮎寿司」を売り出したところ大人気になりました。
─もう1つの柱は。
寺本 それは軍人の団体です。軍人は移動が多いのですが、その頃は道路も整備されておらず、どこへ行くにも列車に乗って行ったのですが、その時に食事は絶対必要ですよね。大阪という大都市と、陸軍があった篠山、海軍があった舞鶴を結ぶ阪鶴鉄道では、そのニーズが大きかったと聞きます。
─それで、淡路屋は大きくなっていったのですね。
寺本 いまでは信じられないくらいの数が売れたようなんです。戦前は外食産業が未発達でしたし、コンビニもありません。移動する人が食事するところも食べものを買うところもあまりなく、弁当を買って車内で食べるくらいしかなかったのかもしれませんね。
弁当にとどまらぬ開発力
─そこから神戸へ移ってきたのはいつ頃ですか。
寺本 戦時中です。神戸では別の業者が入っていたのですが廃業したので、神戸駅へ移転してほしいと鉄道省から打診があり移ることになったんです。
─神戸に関する弁当が多いですが、そのような商品はいつ頃から出てくるのでしょうか。
寺本 戦後、神戸の牛肉が有名になってきたことに目を付け、3代目の寺本淳巳の時代に考案したのが「肉めし」です。昭和40年からですから半世紀以上のロングセラーですね。我々関西の人間は「肉」と言えばビーフなんですね。でも、関東ではポークやチキンも含めて「肉」なので、こっちはビーフのつもりで「肉めし」なのに、それが伝わらない。そこで、牛の絵をパッケージに描くことにしました。
─その後、続々とユニークな弁当を開発していきます。
寺本 先代の父(寺本滉)がほかと違うことを考えることが好きでしたからね。紐を引っ張って熱くなる弁当は日本初です。駅ではできたてを提供できないので、食品衛生上、弁当を冷却しないといけません。それを温めるとなると電子レンジで加熱する訳ですが、列車内ではそうはいきませんよね。そこで、石灰を水と反応させ水蒸気で温める方法を容器メーカーと共同で開発したのが「あっちっちスチーム弁当」。昭和62年のことですが、いまも売れ筋です。また、わさびを利用した抗菌シートも製薬メーカーと共同で開発しています。
ツボにはまったヒット商品
─大人気商品、「ひっぱりだこ飯」はいつ販売されましたか。
寺本 平成10年です。阪神・淡路大震災で神戸も弊社もダメージを受けまして、何か考えないといけないなという時に明石海峡大橋ができて、それを機に考えました。だいたい年間65万食売れていますが、国民の10人に1人が食べたという計算になる1000万食の時に、記念に「金のひっぱりだこ飯」をつくって、金があるならと銀もつくって。
─キティちゃんやゴジラなどとコラボもしていますね。
寺本 少し低迷した頃にコラボたこ飯を出したら、それがカンフル剤になって「ひっぱりだこ飯」全体が伸びました。兵庫県警とのコラボもよく売れましたね。
─たこつぼを思わせる陶器の容器がいいですよね。
寺本 昔は汽車土瓶にお茶を入れて売っていたので、陶器にはなじみがありました。でも、容器の型づくりは苦労しましたね。浮き文字が難しかったんですよ。
発信力で地域に貢献
─いろいろなユニークな弁当がありますが、開発にあたって大切にしていることは何ですか。
寺本 旅客を楽しませることにはこだわりを持っています。何が売れるかは出してみないとわからないですね。
─120周年記念の「めでっ鯛飯」も売れているとか。
寺本 弊社のアニバーサリーなのでそんなに興味を惹かないだろうと思っていたのですが予想以上に売れて、用意が足りず1月末で販売休止となりご迷惑をおかけしました。120周年記念商品はほかにも企画中です。「ひっぱりだこ飯」発売25周年でもありますので、その記念商品も考えています。
─これからの淡路屋のビジョンをお聞かせください。
寺本 コロナ前、業績は堅調でしたが、コロナの影響で酷いときは売上げが99%減、1日1万食売っていたのが300食にまで落ち込んでしまいました。交通機関、球場やコンベンションへ供給していたのですが、移動するな、集まるなということになって商品の出番がなくなってしまったんですよ。ですからリスクを分散しないといけないなと思います。一方で、我々はメディアに採り上げられやすいですし、商品を買う人の半数以上が阪神間以外の人ですし、商品が力を持っています。その発信力を生かして東京など外に出て、駅弁を通して神戸や兵庫の“食”を発信することで、地域へ貢献していきたいですね。
寺本 督(てらもと ただし)
1961年神戸市生まれ。1980年兵庫県立神戸高校卒。1984年神戸大学経営学部卒。1986年慶應義塾大学大学院卒後、株式会社淡路屋入社、1988年取締役、1990年代表取締役常務、2004年代表取締役社長。2000年神戸青年会議所理事長。2007年神戸商工会議所常議員