2月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉞後編 大岡昇平
大岡昇平
魂を書くのだ…恩師の言葉で取り戻した文学への情熱
戦争文学を確立
1945年12月。フィリピンの捕虜収容所から、ようやく日本へ帰ってきた大岡昇平は、神戸から親類宅へ疎開していた家族が暮らす明石市で身をおちつける。ここで彼は翌年から本格的に「俘虜記」の執筆を始める。神戸に本社のあった川崎重工も辞め、退路を断って作家に専念する道を選んだのだ。
「何でもいいから書きなせえ。あんたの魂のことを書くんだよ…」
高校時代にフランス語の家庭教師をしてもらって以来の恩師、小林秀雄が、戦地での話を詳しく語ろうとせず、何も書こうともしない大岡に対し、こう言って後押しした。
「魂を書こう」。そう決意した大岡が、約5年を費やし、連作で13章まで書き綴った「俘虜記」は第一回「横光利一賞」を受賞する。
大岡は40歳になっていた。戦争を生き抜いた者にしか書きようのない鬼気迫るこの戦争文学によって、彼は作家としての地位を確立する。
さらにペンの勢いは増した。
1952年、43歳で小説「酸素」の連載を始め、同年、小説「野火」で読売文学賞を受賞する。
戦場を彷徨い、狂人となっていく孤独な兵士の葛藤を描いた「野火」は、その後、英、米、伊などでも翻訳され、「今世紀最大の文学のひとつ」と呼ばれるなど世界的評価を受ける。
そして1959年、日本映画界の重鎮、市川崑監督により「野火」は映画化された。
極限を生きる主人公の田村一等兵を演じるため、主演に抜擢された俳優、船越英二は約二週間の断食をして撮影に臨んだが、栄養失調で体調を崩して倒れ、撮影は長期間、ストップした。当時、人気絶頂の二枚目スターに、そこまでプレッシャーを与え、悲壮な覚悟をさせた。それが、大岡の〝魂の結晶〟ともいえる「野火」が秘める力だったのかもしれない。
彼の最高傑作とも呼ばれる「野火」の〝呪縛〟は、その後も邦画史の中で消えることはなかった。
2015年、塚本晋也監督が再び、「野火」の映画化に挑んでいる(塚本監督は「リメークではない」と語っている)。
構想20年。製作費が思うように集まらず、監督が自ら主演を務め、自主製作で完成にこぎつけた渾身作は、ベネチア国際映画祭のコンペ部門に出品されるなど国内外の映画祭で高く評価された。
ジャングルの戦場という苛烈な極限状況に投げ出され、生死のはざまでもがき苦しむ人間が究極で試される死生観。「野火」には何十年経っても変わらぬ人間の根源的な生きることへの渇望、死への恐怖…が描かれている。
大岡は複数の雑誌媒体で何度も「野火」の連載を繰り返し、発表する度に、原稿を書き直した。それだけ彼が命を削り、魂を込め、こだわり抜いた作品だった。
監督、俳優の魂を鼓舞
「野火」は2度、映画化されているが、大岡が戦争をテーマに書き記し、後に映画化された傑作が他にもある。
2007年に公開された「明日への遺言」は大岡の長編「ながい旅」を、邦画界の重鎮、小泉堯史監督が映画化した渾身作だ。
主人公は岡田資(おかだ・たすく)中将。戦後、B級戦犯者としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に捕らえられた岡田中将は軍事裁判で死刑判決を受け、東京の巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)で絞首刑に処せられる。
彼は多くの部下の命を守るために、「私一人だけを死刑にせよ」と裁判長に訴えた。一方で「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃は国際法違反である」と米国を批判。岡田はこの法廷闘争を「法戦」と呼び、米国と真正面から戦った稀有な日本軍人だった。
大岡は約10年を費やし、当時の裁判記録などを丹念に調べ、この書を書き上げた。
映画公開前、岡田中将を演じた俳優、藤田まことさん(2010年、76歳で死去)を取材した。
「絞首刑で十三階段を上る場面で、岡田中将は私に乗り移り一体化した…。長らく役者を続けていると、そんな不思議な瞬間と出会えることがあるんですよ」。熱く語る藤田さんにとってこの主演映画が遺作となった。彼は自分の死を覚悟し、この映画撮影に臨んでいたのだと取材中に強く感じた。
大岡が魂を込め、命を削って書き遺した戦争文学はいつの世も名優や名監督の心を震わせる。そうして撮られた映像は、時を超え、見る者の心をいつまでも揺さぶり続けている。
=終わり。次回は淀川長治
(戸津井康之)