2月号
有馬温泉史略 第十四席(最終回)|震災から立ち上がり
未来へと歩む湯の街へぜひ! 平成時代~現在
震災から立ち上がり
未来へと歩む湯の街へぜひ! 平成時代~現在
今回はみなさまも生きてきた時代ですので、記憶を甦らせつつお楽しみいただければと、当時の流行語を適宜織り込んで申し上げます。
さて、ブッチホンの人が「平成」の額を掲げた頃、日本はバブル絶頂でしたが間もなく弾け、きんさん・ぎんさんならぬ金泉・銀泉の有馬も活気に陰りが。そこに襲いかかりましたのが1995年の阪神・淡路大震災。時の自治大臣、野中広務が「兵庫には有馬温泉がある。人心を安心させるため温泉へ疎開させろ」と言ったとか言わなかったとか。
有馬では死者こそゼロでしたが、55棟が全壊284棟が半壊、50数か所の石垣が崩れ、設備は壊れ、土砂崩れも起き、旅館は長期休業を余儀なくされ、中には廃業した宿も。結果的にこの年の入込客数は前年の4割減に。
でも有馬ではすぐさま動き出し、元気有馬推進委員会を立ち上げて復旧復興に努めるだけでなく、下呂温泉からタンクローリーを借りて銀泉を兵庫や長田の避難所へ運び、そこで炊き出しもおこないました。設備を修繕すると、被災者の入浴や、全国から駆け付けた復旧工事関係者を受け入れます。
一方で震災のケガの功名も。倒壊した極楽寺の庫裡を除去すると、そこに湯船のような何かが。なんと、秀吉の御殿の遺構が出てきたのです!これを名所としてたまごっちのように育てていこうと整備、1999年に太閤の湯殿館をオープンし、震災で落ち込んだ有馬観光のリベンジの目玉と相成りました。
また、震災をきっかけにボランティアやコミュニティの重要性が認識された訳ですが、がんばろう神戸のかけ声のもと有馬でも地元の人たちが力を合わせ、道路に愛称をつけたり、景観を整備したり、瓦版を発行したりとチョベリグなアイデアを実現していきます。ちょうどその頃から予約サイトが世に出はじめネットで気軽に宿泊予約できるようになっていき、団体客がバスで旅館に乗り付け街に一歩も出ずに帰っていくスタイルから個人客にシフト。会員制リゾートでの長期滞在からハイキングがてらの日帰りまでニーズの多様化も進んで、街歩きが重要なコンテンツになる訳で、そこで威力を発揮したのが地元主体のまちづくりなのでございます。
1998年には阪神高速北神戸線が延伸だっちゅーの。有馬口インターチェンジができ、神戸市街へのアクセスにおいてハマの大魔神の如き切り札となりました。2001年に銀の湯、翌年には金の湯がオープン、最高で金最低でも金ではなく、有馬は金も銀も最高だと入浴客に知らしめます。もちろんこれがファイナルアンサーではなく、2003年には有馬の工房と有馬玩具博物館が開館。有馬がこんなに楽しいのはなんでだろう~♪と徐々に観光客が戻ってきます。
こうしてナイスフィーリン「グ~!」な街になったのに、再び災難が。2009年に新型インフルエンザが神戸で発見された影響でキャンセルが続出、1,000円高速のチャンスにこれは痛かった。2011年には東日本大震災の影響で旅行自粛や訪日観光客減少が。2014年には台風11号で芦有の通行がしばらくダメよ~ダメダメに。でも三名泉、三古泉、三恩人のトリプルスリーの有馬は不屈。これらの禍を打破すべく、安心して下さい涌いてますよとPRにも力を入れます。ほどなくインバウンドが神ってきて、芸姑カフェなど映え~スポットもでき、有馬はONE TEAMになり大いに盛り上がった!
が、2020年から新型コロナの影響をもろに受け、2021年の入込客数は2019年の半分以下に。ですが有馬は鬼滅、じゃなくて不滅とばかりに次の飛躍に向け、各旅館は客室リニューアルなど前向きに準備しているようです。
ザッと歴史を振り返りますと、有馬は時代時代の来湯者の求めに応じて発展してきた訳でございます。ですからみなさま、ぜひぜひ有馬温泉にお運びいただき、有馬の次の歴史を創っていただきたいとお願い申し上げ、有馬温泉史略、これにて大団円でございます。