10月号
神戸で始まって 神戸で終る ㉛
第19回展(2018年5月26日~)「横尾忠則 画家の肖像」展について、担当学芸員の平林恵さんは次のように語っている。
「1965年の自主製作ポスター《TADANORI YOKOO》以来、横尾忠則は作品にたびたび自身の姿を登場させている。1960年代後半から若者文化を牽引し、作品のみならず作家自身のイメージまでもがメディアによって拡散されてきた横尾にとって、主観と客観が混在する自身の肖像は特別なテーマであったと言える。また、グラフィックデザイナーから画家へ転身する1980年初頭には、確立したデザイン手法を封印し、絵画の中に自分らしさを求めて、多種多様な自画像を描き始めている。
本展の第一部『未来の自画像』では、移り変わる関心のままに主題や様式を変化させてきた横尾の根底にある自己探求のプロセスを、自画像というテーマから探る。虚像としての横尾忠則像を自ら複製する1960年代後半から70年代、試行錯誤を繰り返し、様々な手法で自身の姿をモチーフとして取り入れる1980年代、少年期の記憶から自身を見つめる1990年代、日常の延長をスナップ写真のように描きとめる近作など、自画像の変遷は、描くこと、生きることに対する横尾の意識の変化でもある。
第二部『画家の肖像』では、画家への転身のきっかけともなったパブロ・ピカソや様式の定まらない横尾自身を重ねて道標としたフランシス・ピカビアやジョルジュ・デ・キリコの肖像など、横尾が影響を受けた画家の肖像を展示。そこには師であり仲間でもある先人たちへの敬意や共感、批評等、様々な思いが見え隠れする。
自己と他の画家との間を往還する『画家の肖像』によって、変幻自在の画家、横尾忠則の道程を辿る展覧会とした」
この展覧会に関して、作家の僕がこれ以上説明のしようがないような気がするが、自分ではそれほど意識して自画像を多作した記憶がないのが不思議だ。作家は先ず自らに関心を持つところから創作を始めるのだが、僕のように、直接的に自らの肖像を描くという作家は、この平林さんの文章を読むと、何だか特異な存在のように思われてしまって、逆に僕自身が驚いている。
画家でなくても、誰でも最初に関心を持つ対象は自分自身であると思う。自分は一体何者なんだというところから、自分自身の世界観が始まるのだ。画家で自画像を一度も描かなかったという人はいないのではないだろうか。ダ・ビンチ、レンブラント、ピカソ、マチス、ゴッホ、ゴーガン、キリコ、ダリ、デュシャン、ウォーホル、北斎と数えればきりがない。平林さんの僕の自画像論を読むと、自画像を主題にしているほど沢山描いているように思われるかもしれないが、そんなにしょっちゅう描いているような気はしない。が、それでも、このような展覧会を企画するためには相当数描いているのかもしれない。僕の記憶ではせいぜい10数点ぐらいだと思うのだが、数えてみたことがないので実際の数はわからない。
小説には私小説というのがあって、自分が小説のテーマになっている。僕は私小説は生々しくってあんまり好きではない。絵ではゴッホの自画像が有名である。ゴッホは自画像に限らず、「ひまわり」の絵などは相当の数、描いているはずだ。だからゴッホの自画像の多いのも「ひまわり」を何枚も反復する行為と同じように僕は見ている。
僕もしばしば反復をテーマにすることが多いが、僕の中ではゴッホのように自画像を反復するという目的はほとんどないので、このような「画家の肖像」と題する展覧会ができるのが不思議である。ゴッホは明らかに意識して自画像を何点も反復しているのだが、もし僕に自画像が多いということになると、自画像は僕の無意識的行為ということになるのかもしれない。画家が意識しないで、何度も自画像を描くということは、一体どういうことなのだろう。これはどうも上手く説明できない。
必要以上に自分に興味を持つということは、必要以上に自我意識が強いということで、決して感心できることではない。絵を描くという行為は、確かに私意識から出発するが、最終的には自我を凌駕して、普遍的な境地に立つのが芸術の理想的な姿であると考えているのに、これは誠に困ったことである。人はそんなには自分のことには関心を持っていないはずだ。自分だけの関心の対象を描くということは一体どういうことなんだろう。あんまり考えてみたことはないが、一度深く考えてみる必要がある。
この展覧会は、自我の露出によって、いやになっていたかもしれない。だけどありとあらゆる自分に取り囲まれて、そこから逃げだしたかもしれない。そう考えると、自分に密着した生き方はかなりつらいと思う。そんな自分と対峙することで、大いなる自己否定ができたかもしれない。誰もが自分と直面してみたいと思うが、一方で自分を避けたいのである。自画像展は恐らく、吐き出された見たくない自分を見せられる展覧会であった。この展覧会は一般の人達のための展覧会でありながら、同時に作家に突き付けられた見たくない自分を見せつけられる展覧会でもあったと思う。
実際の展覧会では冷汗はかけなかったけれど、今から当展覧会のカタログを開いて、自分のために恥をかくのも悪くないだろう。まあ、そしてそこにはきっと「私は何者か?」という答えが隠されているのかもしれない。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞受賞。令和2年度 東京都名誉都民顕彰ほか受賞・受章多数。3月に小説「原郷の森」(文藝春秋社)が刊行された。横尾忠則現代美術館にて開館10周年記念展「横尾さんのパレット」を開催中。
http://www.tadanoriyokoo.com