9月号
有馬温泉史略 第九席|「会いに行けるアイドル」の ルーツは有馬に? 江戸時代
「会いに行けるアイドル」のルーツは有馬に? 江戸時代
江戸時代の有馬は大変繁栄したそうです。
前回申し上げた通り1596年の慶長の大地震で被災して、秀吉がその復興過程で岩風呂や蒸し風呂まである壮麗な御殿を建てたけどここに来る前に死んじゃった訳ですが、江戸時代になるとこのゴージャスなレガシー目当てにセレブたちがわんさとやって来て、湯の街有馬は豪華絢爛大賑わい!と、普通ならそうなると思いますよね?
ところが…この御殿、活用せずに解体されちゃうの。でも建物は勿体ないので三田のお寺へと移築され、いまもその一部が残っていて、それが心月院の山門です。ちなみにこのお寺には、白洲次郎・正子夫妻のお墓があります。そして御殿跡地には徳川ゆかりの浄土宗の極楽寺と念仏寺を建て秀吉色を一掃、江戸幕府恐るべし!でもね、秀吉の命による泉源や河川の改修が江戸時代の発展の礎になった訳で、太閤さまのご威光を完全に覆い隠すことはムリだったみたいですね。
ところで、熱心な読者のみなさまは、前回申し上げた「慶長の大地震で温泉が熱湯になっちゃった問題」はどうなった?とお思いでしょう。実は江戸初期も激熱のままだったようで、1621年に入湯した林羅山の記録によれば、温泉に卵を放り込むとゆでたまごになったとか。お風呂はそのままじゃ人間のしゃぶしゃぶになっちゃうので、水を注いでいたようですがそれでも熱く、のぼせないよう冷水をひたした手ぬぐいを頭のてっぺんに載せて入浴する「枕水」や、湯を汲んだ桶を高くかかげて肩や背中に湯をかける「打湯」といった工夫をしたそうです。
でもいつの間にやら冷めてきて、1700年を過ぎた頃には適温に。でもそれから100年も経つと逆にぬるくなりすぎて、柘植龍州という医者の助言で泉源を改修、地下水の滲出を防いだところまた適温になったとか。
この温度変化、神秘的よね?それもそのはず、有馬の湯は熊野権現のご神力により熊野灘から流れる潮が芦屋でもぐり込み、有馬に沸いて出たものですから。江戸時代の常識ではね。ゆえに、芦屋にあった*報恩寺薬師堂は「湯元薬師」とよばれていたそうです。
そんなありがたい温泉だから、大名から犯罪者まであらゆる人々が有馬を訪ねます。入浴は室町の頃と変わらず外湯で浴場は1か所、浴槽を2つに仕切って一ノ湯・二ノ湯とし、それぞれ入浴客を宿ごとに分けていました。ということは混浴?とスケベなこと考えてたあなた、正解!ですが残念、男はふんどし、女は湯着を着用していたとか。
お宿も来訪者の増加にともない、もともと宿坊というタテマエでその起源が行基とも仁西ともいわれている十二坊がいつしか二十坊に増え、さらにその傘下に民泊的な「小宿」が有馬全体で70ほどできたそうです。
で、二十坊それぞれに1名ずつ、年増のマネージャー的な大湯女、その下に若い小湯女がおりまして、お客のお世話をしておりました。特に小湯女は宿から浴場へ案内し、浴場では下足番や衣類の受け渡しなど、宴席ではお酌や「有馬節」の披露とか大忙し。
容姿端麗な小湯女はまさにアイドルで、13~23歳くらいと現代のそれと同世代。中ノ坊は「つね」、御所坊は「まき」など宿ごとに芸名?も決まっていました。しかも会いに行ける訳ですから「推しメン」にイレ込む客も多かったようで、AKB商法のさきがけといえるでしょうか。さらに、例えば御所坊のまきちゃんは「釣簾まきて雪にみとるゝ御所すだれ」と、それぞれの句まであったんですが、これって「えくぼは恋の落とし穴、百田夏菜子です!」といったももクロメンバーのキャッチフレーズみたいなものですよね。
時に大火事や水害、飢饉に苦しみつつも、こんな感じで江戸時代の有馬は万人が楽しめる温泉地として大いに賑わったのですが、明治には一転!…おっと、ここでお時間です。
*いわゆる「芦屋廃寺」。「法恩寺」という表記の文書も。