6月号
翠風の地、六甲エリア 〜そのあゆみと価値〜
神戸と大阪を忙しく往き来する阪急電車も、この街を通るときは少しアンダンテなリズムを刻むように感じる。
六甲せせらぎの道や摩耶ケーブル下にほころぶ爛漫の桜花。
万緑の六甲の森からそよぐ都賀川の涼風。
風光明媚な六甲エリアの魅力を挙げると、枚挙に暇がない。
太古より選ばれし地
陽光に満ちあふれ温暖、高燥で水も空気も清らか。今も変わらぬ普遍的な宝は、有史以前から存在したようだ。
六甲川と杣谷川の合流地点の篠原遺跡は、縄文・弥生それぞれの痕跡が見つかり、いかに長い間ここが生活の場として愛されてきたかを物語る。中でもここから出土した遮光器土偶は東北地方のものと同じような形態で、その分布の最西端として学術的に重要だそうだ。また、篠原伯母野山町の伯母野山遺跡からは穀物を収穫する磨製石包丁や石鎌などが発掘されている。さらに、桜ヶ丘町の桜ヶ丘遺跡では銅鐸14個と銅戈7本という考古学史に残る大発見があり、これらの出土品は国宝に指定され、神戸市立博物館で常設展示されている。
古墳時代もこの一帯は栄えていたようで、篠原南町には古墳時代後期に築かれた横穴式石室の鬼塚があり、ここから副葬品とみられる鉄器や勾玉が発見された。
律令時代には莵原郡天城郷となり、摂関政治下には藤原家と縁がある都賀野荘の支配下となって都との結びつきも強かったようだ。平安末期に平清盛が福原に遷都するが、一説によると、阪急「六甲」駅南隣の六甲八幡神社はこの際に男山八幡を勧進し創建されたとされている。
豊かな農村と水車産業
篠原一帯は戦略的にも重要な地点だったようだ。鎌倉末期、後醍醐天皇を支持する反幕府勢力の武将、赤松円心の軍勢と、幕府側の六波羅探題軍がここで激突。赤松軍は左右が狭くなった現在の六甲台あたりまで敵方をおびき寄せて奇襲し撃退。この地の地形的特徴を把握していた円心の策がピタリとはまり、六波羅探題軍は4千もの兵を失ったという。
室町、戦国を経て豊臣秀吉が天下統一を果たすと1594年に太閤検地がおこなわれ、さらに徳川幕府が開かれると大半は尼崎藩領となった。
江戸時代は百姓たちがこの地を豊かにした。もともと扇状地だったが、芝草などをすき込んで土の質を改良。さらに干鰯や油かすなどを施して土壌を肥沃にするだけでなく、水路やため池などを整備して生産性を向上させ、米や麦などの穀物のほか、大豆、菜種、綿、野菜など多彩な作物を栽培するようになったという。
一方で江戸時代初期から急流を利用した水車産業が発展、天明年間には25両、寛政年間には30両の水車が稼働していたと記録にある。当初は搾油に使用されていたが、その後米搗きにも用いられ、海側に広がる日本一の酒どころ、灘を支えた。
モダニズム薫る文教の街
明治になっても豊かな農村だったが、開港した神戸の外国人のニーズに合わせて酪農もおこなわれるようになり、5つの牧場で100頭以上の乳牛が飼育され、日産約500リットルの牛乳を搾乳していたそうだ。
大正時代になると、日本最大の工業都市へと成長した大阪と、東洋一の港町にして金融の中心でもあった神戸の間に位置し、〝健康地〟としてのポテンシャルもあり、利便性と快適性を兼備した郊外住宅地として注目を浴びるようになる。特に大正9年(1920)に阪神急行電鉄(現在の阪急)が開通し「六甲」駅が開業、さらに土地区画整理組合が結成され昭和7年(1932)に「六甲」駅周辺の区画整理が完了したことがその流れに拍車をかけ、富裕層たちが邸宅を構え、〝阪神間モダニズム〟とよばれる独自の華やかなライフスタイルの舞台のひとつとなる。
並行して、多くの教育機関が学び舎をこの周辺に求めた。明治22年(1869)に原田の森で関西学院が創設。その西隣には官立神戸高等商業学校(神戸商高)が明治36年(1903)に全国で2校目の高商として設置され、その5年後に六甲台へ移転し戦後神戸大学となった。ほかにも松蔭高等女学校(現在の神戸松蔭女子学院大学・松蔭高等学校)などが神戸の中心地から移転し、六甲中学校(現在の六甲学院)や神戸一中(現在の神戸高校)なども開校して、現在の文教エリアの礎となっている。
昭和以降は戦災、震災を乗り越えながら都市機能を充実させて発展、特にJR「六甲道」駅周辺は阪神・淡路大震災復興の再開発で大型店のオープンなど一大ショッピングゾーンへと進化した。一方の阪急「六甲」駅周辺も昨今、小粋なカフェや実力派のレストラン、気になるパティスリーが増え、注目度を増している。静かな環境と自然が守られた六甲エリアは暮らしやすいだけでなく、歴史が醸した文化の芳気が住む者の人生を豊かにしてくれることだろう。
参考文献 有井基編『灘区の歴史』
田辺眞人監修『灘の歴史』
灘区まちづくり推進課『灘区歴史散歩』 ほか