6月号
有馬温泉史略 第五席|有馬で極楽~ YOUは何しに温泉へ? 室町時代
第六席 有馬で極楽~
YOUは何しに温泉へ? 室町時代
みなさん温泉がお好きかと存じますが、温泉へ何しに行きますか?お風呂でリフレッシュ?観光地としていろいろ見物するのも楽しいですよね。宴会や接待というのもあるかも。もちろん、持病の治療や緩和といった湯治もね。で、いま挙げた温泉のニーズ、実は中世の頃からあったようなんです。
有馬温泉が鎌倉初期に再興したことは前回申し上げた通りでございますが、その後、有馬は施設が整い、交通路も整備され、より賑わうようになっていきます。
まだまだ医療が未発達でしたので、有馬温泉が最後の希望という湯治客も多く、その甲斐なく有馬で最期を迎える方も少なくなかったようです。有馬温泉には現在も寺院が7つとほかの温泉地と比べて多いのですが、それは平癒祈願やお弔いが多かった頃の名残といわれています。また、『平家物語』にも登場する慈心房尊恵によれば、有馬は閻魔王宮の東の門だそうで。つまり、有馬温泉は生と死の境界と認識されていたみたいなんです。
鎌倉前期、公卿の西園寺公経は有馬まで行かず、途中の吹田の別荘にとどまってここに有馬から温泉を運ばせて入浴したそうです。この「召し寄せ」は後嵯峨上皇や後深草天皇なども御所でおこなっていましたが、これは有馬の「湯」そのものに価値を見出した、つまり薬効を期待したということなのかもしれません。それにしてもタンクローリーなどないので、たくさんの人足が湯を満々と詰めた桶を運んだ訳ですが、入る人より運ぶ人の方が健康になりそうですよね。
でもやっぱり、温泉ってお湯だけに魅力があるんじゃなくて、温泉地へ行ってナンボですよねぇ。鎌倉時代の歌人、藤原定家はなんと4度も有馬を訪問。咳や関節痛の持病があったようですが、重病じゃないのに有馬へ通ったのは楽しかったからなのでしょう。
そうやって湯治目的はタテマエと化し、鎌倉後期から室町にかけては有馬へ堂々と遊びに行くようになるようで。鎌倉初期は有馬の社寺仏閣めぐりや、近くの鼓が滝の散策程度だったのが、室町中期になると片道10㎞以上ある鎌倉谷、現在の鎌倉峡まで日帰りでハイキングするのが定番になっていたとか。ここはいまクライミングの名所ですが、さすがに岩登りはしていなかったとしても、おおよそ湯治に来る病人のやることじゃありません。
また、室町の初期になると酒もつきものになり、中期には毎日どこかで酒宴がおこなわれていたとか。しかも飲酒したと記録しているのは僧侶。病の坊さんが酒呑んで風呂入っていいのかよ!ほかにも囲碁、読書、歌会、サッカーというか蹴鞠など娯楽いろいろ、サロン的な雰囲気もあり、そりゃ楽しいでしょう。そう言えば瀬戸内寂聴さんは有馬の高級旅館に逗留して原稿を書いたそうですが、こういうのも鎌倉時代からあった訳で。日本人って中世から進化していないのでしょうか。
さて、しばしタイムスリップして、室町時代の有馬の湯屋へ参りましょう。浴場は一ノ湯・二ノ湯の2か所あり、身分の貴賤に関わらず温泉街の南側の宿からは一ノ湯、北側の宿からは二ノ湯へと客が出向いてご入浴。脱衣所で服を脱ぎ、階段降りて浴室へ。湯舟は横5~6尺・縦7~8尺といいますから、2m四方といったところ。当時は立って湯に浸かったようで、この狭さでもギリ10人ほど入れます。浴槽の底は砂礫で、その隙間から新鮮な温泉が滾々と。足もとから涌く源泉かけ流しでほっこりしましょう。しかもかけ湯用にと槽の一部を区切り、さらに山から清水を引き、バスルームは清潔で快適。以上、相国寺の高僧、瑞渓周鳳の記録をもとにした1452年の様子でございました。
このように中世、特に室町時代は、いまに通じる温泉カルチャーが確立した時期と言えそうです。遊んで呑んで風呂入って「あ~極楽♪」とエンジョイする者と、リアルに極楽浄土へ逝く者とが交差し、もしかしたら現代よりもさまざまな人間模様を垣間見ることができたのかもしれません。