4月号
世界的ゴルフフォトグラファー 日本のゴルフ揺籃の街、神戸へ
マスターズをはじめとするトップクラスのトーナメントを数多く撮影、ジャック・ニクラウスやタイガー・ウッズなど一流選手にレンズを向け、世界の名門クラブのオフィシャルフォトグラファーを務めるゴルフ写真の第一人者が、神戸を拠点にしていることをご存じだろうか。コースに注がれる光を掴み、印象深い一瞬に永遠の命を与える写真家、宮本卓さんが、神戸を、ゴルフを語る。
宮本 卓|Taku Miyamoto
ゴルフ文化が身近な神戸
─なぜ神戸に住もうと思ったのですか。
宮本 アメリカを拠点に世界のコースを撮影してきましたが、人生終盤を迎えて何かやり残したことがないかと思った時に、日本のゴルフ場を撮ってないなってことが心に澱のように残っていて。神戸はすぐ近くに由緒あるゴルフ場がたくさんありますし、住みやすさや住環境のことも考えて。この家はたまたまネットで見つけて一目惚れです。
─この家のどんなところが気に入っていますか。
宮本 ここは写真が飾れる廊下があるんです。脇に川が流れる面白い土地で、このように南北に長い敷地で東西から横に光が入り、それが奥行き感をつくってくれます。ゴルフコースでもそういうレイアウトはきれいなんですよ。
─神戸に住んだ感想は。
宮本 山と海が近く、ほどよい都会。良いレストランも色々あって街の規模感が自分のライフスタイルに合い、気に入っています。
─御影から見上げる六甲には神戸ゴルフ倶楽部があります。
宮本 クラブハウスに入った瞬間、コミュニケーションの風通しの良さを感じました。関西はもともと地場の企業家がクラブをつくってきたので、それぞれのアトモスフィアがあります。お付き合いが綿密で代々続いていて、それが何となくの空気をつくり、ゴルフ文化になっていくのでしょう。コースを回って創設時の情熱を想像するのも楽しいし、飽きない。何度行っても挑戦意欲が涌くようなコースですね。
─日本最初のゴルフコースで、歴史もありますよね。
宮本 ここには日本人としては2人目の神戸ゴルフクラブのクラブチャンピオンである小寺敬一さんの邸宅があったそうです。日本人最初のクラブチャンピオン九鬼隆輝氏は、三田藩主のご子息で、廣野ゴルフ倶楽部の土地はもともと九鬼家の土地です。また近くには乾邸がありますが、乾豊彦氏は廣野の理事長や日本ゴルフ協会名誉会長でした。このあたりはゴルフにゆかりが深く、ゴルフが神戸に入ってきた時の方々の孫世代がいまもご健在で、いろいろなお話を聴けるんですよ。
舞台もゴルフも一緒かな?
─ゴルフとの出会いは。
宮本 東京で過ごした大学時代は、新聞社で写真部の手伝いをしながら、ミュージシャンを目指してキャバレーの生バンドでバイトし、楽しかったですけどすごい競争でプロを断念しました。一方で写真ではブラックミュージックの雑誌のグラビアの依頼が入り、レイ・チャールズやジェームス・ブラウンも撮ったことがあります。それでミュージシャンのジャケット撮影とかを手がけていたんです。でも、これでご飯を食べるのは大変で。そんなタイミングでたまたま、青木功さんが日本人初の海外ツアー優勝と出ていた新聞を見たら、その下にゴルフカメラマン募集の記事が出ていて、面白そうだなと。ゴルフやったことないけど、舞台撮るのとゴルフ撮るのは似ているんじゃないかと勝手に思い込んで。
─ゴルフ撮影の面白いところはどんな点ですか。
宮本 野球やサッカーが撮影場所を制限されるのに対し、ゴルフはロープ際というルールはありますが比較的自由に動けます。つまり、いろいろな光を自分で選べるんです。
─渡米したのはなぜですか。
宮本 海外へ行けば本場のゴルフも撮れるし、音楽も好きだったので本物のライブも観られると思ったので。実は数奇なことに、日航ジャンボジェット事故に遭遇した便に乗る予定を直前に変更したんです。渡米に迷いもあったのですが、助かった命だしこれからは好きなことやろうと思ったのも大きかったですね。
次の100年に残る仕事
─撮影してきた中で印象深いコースはどこですか。
宮本 ゴルフ発祥の地、セント・アンドリュースですね。15世紀、重機がない時代に自然の地形やこぶを生かしてつくられたコースがそのままで残されていて、ゴルフという魅力ある、中毒性のある〝遊び〟がこうやって生まれたのだなと。背景のまちなみも守られ、オリジナルの景観が大切にされているんです。
─鳴尾ゴルフ倶楽部100周年の写真集を撮影されました。
宮本 ゴルフ場は自然とともに変化していきますし、道具も進化していますので、コースも変わっていきますが、次の100年の頃に僕の写真が残っていくじゃないですか。4年がかりの撮影でしたが、そういう仕事に携われるのは幸せなことです。
─廣野も素晴らしいですよね。
宮本 揺るぎない名コースです。鈴木商店のロンドン支店長を務めた高畑誠一が、イギリス人でアメリカを中心に活躍していた設計家、チャールズ・ヒュー・アリソンに依頼したんです。アリソンは廣野に来て設計したあと、鳴尾や茨木(カンツリー倶楽部)のコース改修も手がけました。アリソンのコースはバンカーで有名なんですが、土地に応じて18ホールのルーティングを組むことが上手くて、苦あり楽あり、抑揚がまるで交響曲のようです。だからプレーすると心に残るんですよ。これからアリソンの歴史が解明されると、世界から廣野の価値がさらに注目されるのではないでしょうか。世界中のコースをいろいろ見てきましたけれど、そのレベルは高いですね。
廣野の90周年記念写真集も撮影しましたが、渡辺節設計のクラブハウスは良いです。空間と光の採り方に特徴があり、光が曲線美を際立たせています。
正面玄関を叩いた先に
─マスターズも長い間撮影してきましたね。
宮本 34回で写真家としては世界最多です。いまはオフィシャルカレンダーも撮影しています。僕はアメリカに渡ってから「正面玄関を叩いて入る」をポリシーにしてきました。作品で仕事を評価してもらうので時間がかかりましたが、ペブルビーチと契約したことがきっかけで世界の名門コースから依頼が来るようになったんです。
─昨年、松山英樹選手がマスターズを制覇しましたね。
宮本 はじめてマスターズを撮影した時には、日本人の優勝なんて夢にも思いませんでした。日本人が世界で活躍するようになったのは、青木さん、ジャンボ尾崎さん、岡本綾子さん、宮里藍さんなど先人たちの挑戦があったからこそと思います。
─タイガー・ウッズ選手をアマの頃から撮影していたとか。
宮本 スーパースターになる階段を上がっていくのを見届けられたことは、僕にとって貴重な経験でした。メジャートーナメントで勝った時の写真を全部撮っているのは、世界で僕だけなんです。アメリカではじめてのタイガーの写真展を開催した時は喜んでくれて、彼の一番の親友が受付を担当してくれました。
─これから、どのようなことにチャレンジしていきたいですか。
宮本 僕はアメリカで長い間活動し、帰国後も廣野・鳴尾・茨木でも仕事して、これはアリソンの繋がりだなって。そんなこともあって、アリソンの業績を検証していきたいですね。歴史を調べれば調べるほど繋がっていくんですよ。ゴルフの歴史とゆかりが深い関西に住んでいろいろな話をうかがいながら、アリスター・マッケンジーと競い合う中でさまざまな名コースが生まれたこと、京都の庭園をいろいろ見せられ慧眼を試されたことなどいろいろなエピソードを交えつつ、自分なりのアリソン像を描けたらいいですね。
フォトグラファー 宮本 卓(みやもと たく)
1957年、和歌山県生まれ。ゴルフフォトグラファー。1983年にゴルフフォトグラファーとしての活動を開始。1987年から海外に活動の拠点を移し、マスターズなどのメジャー大会、PGAツアーやLPGAツアーなどの取材を行う。特にマスターズトーナメントの撮影回数はフォトグラファーとしての最多撮記録を保持している。世界中の名門ゴルフコース撮影も多く手掛けており、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著シリーズ「夢のゴルフコースへ」など。1998年 第2回ジョニーウォーカー・ゴルフジャーナリストアウォード最優秀写真賞受賞。2015年 和歌山県文化奨励賞受賞。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。
連載
「旅する写心」 BRUDER in GDO https://bruder.golfdigest.co.jp
オフィシャルフォトグラファー
廣野ゴルフ倶楽部、鳴尾ゴルフ倶楽部、我孫子ゴルフ倶楽部、太平洋クラブ