1月号
映画をかんがえる | vol.10 | 井筒 和幸
昔から、年末年始に封切られる正月映画は大味だが、その時代の気分を代弁していたのも確かだ。
1974年の正月、ボクが観たのはマイナーなものしか記憶にないが、中でも『ダラスの熱い日』はまさに代表作で63年11月のケネディ暗殺の犯人たちは政府の中にいた者たちの共同謀議だったと大胆な仮説を立てて描いていた。バート・ランカスターの主演だが、50年代に赤狩りにあっても『ローマの休日』(54年)など本名を隠して書いた、ダルトン・トランボという脚本家の作品だから観たのだった。脚本やキャメラマンの名前で映画を観るようになっていた。作戦決行の何日も前から何人もの狙撃手が射撃訓練をする場面まであった。74年になると、米軍はベトナムから撤退していたし、10年前にべトナムへ軍事介入したことをケネディはどう考え、それを誰と誰が邪魔しようと企んだのか、映画で振り返っていた。60年代の回顧や反省の映画が作られ出した頃だった。ジョージ・ルーカスという青年が前年73年に作った『アメリカン・グラフィティ』が全米でヒットし、年末には日本にやって来ると聞いた。ケネディ時代のカリフォルニアの白人ばかりの田舎町が舞台で、平穏で能天気だった高校生らの一夜の戯れを描く“音楽ファッション映画”だから絶対に見ようと関西のあちこちで若者が噂していた。あちこちの若者がまるで自分もアメリカ人のように思っていた。大阪ミナミのアメリカ村にもサーフショップが現れて、若者はアメリカが一番好きで、米軍の払い下げのGパンやGシャツが流行った。ボクはアメリカ映画でその実験国家の文明と文化を知りたかっただけで、アメリカ帝国主義の戦争には反対だった。
少年期のボクに『コンバット』を見せて、ハリウッド帝国に抗い続けた作家に、ロバート・アルトマン監督がいる。朝鮮戦争中の野戦病院のてんやわんやを皮肉った『M★A★S★H マッシュ』(70年)の反戦シネマも忘れられないが、飄々としたエリオット・グールドを再び、探偵フィリップ・マーロウ役に起用した『ロング・グッドバイ』(74年)もこの頃だ。ハードボイルドという、人物の感情は描かずに簡潔に事を追う小説の映画化だ。でも、全編の画面が止まらずに横に縦に動いていて最後まで気分が落ち着かず、中身の事件もなかなか解決しなかった。腑に落ちずに歩き回るマーロウの気分に合っていたのか。ただ、この不思議な画面は、後に『ディア・ハンター』(79年)や『天国の門』(81年)を撮るヴィルモス・ジグモンドというキャメラマンの仕業だった。この映像師は56年に故郷ハンガリーの動乱に巻き込まれ、それを撮ったフィルムを持って、『イージー・ライダー』を撮る友人ラズロ・コバックスと共に「表現する自由」を求めてアメリカに亡命した人だった。でも、探偵ものはボクに不向きだった。アルトマンの所為か、探偵ものは今まで撮ったこともない。
74年のクリスマスに封切られた傑作は何と言おうが、『ゴッドファーザー PARTⅡ』だ。日本は年を越して4月のゴールデンウィーク公開。映画興行で金儲けする週の意味だが、今の若者はそれも知らない。このマフィア一家の叙事詩も知らないはずだ。これは3回は見ないと人に語れない。アメリカでは公開するや客が列をなしたと聞いた。だからか、年明けの大阪の地下鉄のドア口にも厳めしい小さなポスターが早々に貼られていた。「PARTⅡ」という世界で初めての題名に、ボクは「なんのこっちゃねん?」と首を傾げた。切り落とした馬の生首を思い出す前作の本当の続篇か、今一つ解らなかった。だから、生首の代わりに何が出るのか、春まで待つしかなかった。撮影は名手ゴードン・ウィリスだ。アル・パチーノやデ・ニーロを徹底的リアリズムで撮った。その暗部の多い照明法は世界に拡がった。二人の演技の先生、リー・ストラスバーグもマイアミのギャング役で出た。凄まじい3時間20分。ボクは見事に打ちのめされ、作り始めたピンク映画などどうでもよくなっていた。
PROFILE
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD、2021年11月25日発売。