3月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~⑪教育者へ求めた平生釟三郎の哲学前編
教育者へ求めた平生釟三郎の哲学
教育者足るべき三つの条件
「教育を学ぶ時期、全力で働く時期、社会に奉仕する時期。人生には三つの時期がある」。実業家で教育者、政治家でもあった平生釟三郎(1866~1945年)は、この「人生三分論」を体現し、第二次世界大戦が終結した昭和20年11月、79歳で亡くなった。苦学して世に出て、若くして実業界で八面六臂の活躍をするが、「50歳を超えたら社会奉仕に専念したい」と宣言。第二期までの活動に増して、第三期の彼の行動力は凄まじかった。
「理想の大学の創設」を目指し、神戸市内に甲南小・中・高等学校から甲南大学までを運営する教育機関「甲南学園」を築き、「理想の病院」を目指し、地域医療のための「甲南病院」(現甲南医療センター)を建設。また、常に世界に目を向けていた彼は、ブラジルへの移民活動に尽力し、日本が第二次世界大戦中、世界から孤立する中、ブラジルとの外交継続に貢献した。
平生の晩年の社会奉仕活動については、現在まで広く語り継がれているが、これら行動の原動力を培った〝学ぶ時期〟については、あまり語られていない。
人生三分論の第一期。彼の壮絶な苦学の時期を知る者は現在、多くはいないかもしれない。
教育者として文部大臣も務めた平生が、日本の教師に求めた条件が三つあった。
一つ。学生に対して親切であること。
一つ。教育とは学生の個性を引き出すこと、詰め込むことではない。
一つ。学生が想像力豊かで個性を発揮できるようにすること。現代の教育者たちは、彼のこの言葉をどう受け止めるだろうか。もし、平生の理念が重んじられ、広く教育の場で実践されていたとしたら、現在、日本で引きこもりやいじめ自殺などが増え続け、ここまで社会問題として深刻化する事態にはなっていなかったのではないか。
苦学の精神
平生が生涯を懸けて教育に情熱を注いだのはなぜだろうか。そのエネルギーを生みだす源泉には、彼自身が味わった壮絶な苦学の経験が強く関わっていると想像される。
平生は1866年、現在の岐阜市に生まれた。岐阜県第一中学校(現県立岐阜高校)に進学するが、家計は貧しく、中退して上京。働きながら進学できる道を模索していたところ、現東京外国語大学が学費免除の学生を募集しているのを知り、試験を受けて合格する。だが、最終学年時に学費免除の制度がなくなり、再びピンチに。「またしても…」と落胆したのは一瞬で、すぐに彼は行動を起こす。学業継続の道を模索していたところ、平生家の養子となる話がもちかけられ、学費援助を受け、現一橋大学へ進む道をつかみ、首席で卒業するのだ。
大学卒業後、現在の東京海上日動火災保険に入社し、実業界で頭角を現す彼が、人生の第三期を迎えたところで、「教育にエネルギーを費やそう」と決意したその裏には、自身、多くの人たちの支援を受け、教育を受けることができたことへの〝恩返し〟の思いが強く反映されていたのだ。
未だ終息の兆しが見えない新型コロナウイルスの猛威は日本経済を直撃し、学生たちにも試練を与えている。経済的事情から中退する大学生も増え始めている。
だが、まだ学業への情熱が残っているなら、簡単にあきらめず、人生の第一期「学ぶ時期」にこだわった平生の執念を参考にしてほしい。コロナ禍にさらされているとはいえ、平生が生きた、食事にさえ事欠いた貧しい幼少時代や日本全土が焼け野原となった戦時中よりも、今の日本経済は豊かなはずだ。
活路を見い出す強い心
平生は、教師による学生に対する画一主義、はめ込み主義を嫌い、学生の個性を尊重し、自主自立の精神を重んじた。
今、もし彼が生きていたら、コロナにどう立ち向かっていただろうか。平生の言葉を思い出してほしい。
「学生に対して親切であれ」
コロナ禍を理由に学業を断念する学生を見捨てるような日本の教育者を彼は許さなかっただろう。
「想像力豊かで個性が発揮できるようにせよ」の教えには、教師への要望とともに、学生自身が己の力で自立すること―への期待が込められている。
少年期に実家を離れ、働きながら自ら奨学金制度を見つけ出し、養子先の支援を受け学業継続を貫いた彼の執念を、今こそ見習うべきではないか。第三期における、彼が果した社会貢献への実行力を見れば、「第一期こそ、若さを武器に知恵と体力を振り絞って活路を見い出せ!」という教訓を、身を挺して彼は後世の若者たちへ伝えたようとしたことが理解できる。終戦後、最大の危機を迎えた今、教育者、学生たちは彼が遺したメッセージをどう受け止めるか。今、日本人の生き方が問われている。
=後編へ続く。
戸津井康之