5月号
浮世絵にみる 神戸ゆかりの「平清盛」 第5回
中右 瑛
武士の台頭〝保元・平治の乱〟
「邪魔者は殺せ!」
これが時の権力者たちの理念だ。
保元元(1156)年、鳥羽法皇(74代天皇)の崩御をきっかけに、第一皇子の崇徳上皇(75代天皇)とその弟の後白河天皇(77代天皇)との権力闘争が表面化した。
最高の位を得た後白河天皇は権力をなお一層強固にするために、源義朝、平清盛を味方に加えて、実兄(崇徳上皇)を都から追い出そうとたくらむ。それが世にいう「保元の乱」(1156年)の発端である。
図(左)は「保元の乱」の夜討ちのシーンで、後白河天皇方に参じた源義朝軍が、崇徳上皇方が立てこもる白河殿に、未明、奇襲攻撃をかけた。迎え撃つ強弓の名手・源為朝の活躍が描かれている。
奇しくも、義朝、為朝兄弟が敵同士となったのも因果である。
為朝は身の丈七尺(2メートル10)。大矢を矢継ぎ早に射る剛の強兵である。
しかし崇徳上皇方は奇襲攻撃にあえなく敗北。
上皇方についた源為朝は豪弓の誉れ高く、その折の活躍は目覚ましかったが敗北したため、伊豆大島(八丈島との説あり)に流された。
為朝は、さまざまな物語や伝説に登場。滝沢馬琴の冒険小説『珍説弓張月』では、鎮西八郎為朝、スーパーヒーローとして登場する。
破れた崇徳上皇は隠岐に流され、後白河天皇を呪詛しつつ世を去った。(右図参照)
この戦乱で、源義朝と平清盛とはともに勲功があったが、後白河天皇は平家の武力、財力に支えられつつなにかと清盛を取り立て、一方、義朝への恩賞は少なかった。それが因で義朝と清盛との争いとなり、3年後、「平治の乱」(1159年)が起こったのである。
敗北した義朝は東国に下る途中で暗殺され、その長子・義平は近江で捕らえられ京で斬首、義平の弟・頼朝は伊豆に流された。それ以後、源氏・平家の宿命的な憎悪の対決が始まる。
源氏はいちじるしく勢力を失ったが、義朝の遺児・頼朝が伊豆で挙兵するのが、これから20年後のことである。
源氏を破った清盛は、後白河天皇の後ろ盾で日に日に勢力を伸ばし、ついには従一位太政大臣にまで昇進した。
武士の政界への台頭が始まったのである。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。
1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。