9月号
時を経ても色あせない美しい街並み 「居留地」を設計したJ・W・ハート
幕末に結ばれた通商条約に基づき、貿易を行うために外国人が居住を認められたエリア、外国人居留地。函館、横浜、長崎、大阪、新潟と次々と日本の港が開港される中で、慶応3年12月7日(1868年1月1日)神戸港が開港した。このうち、居留地を拠点に貿易が発展したのが横浜と神戸であった。居留地が設けられ、早くから外国人と身近に接することのできた神戸の人々は、さまざまな分野で西洋文化の影響を受け、神戸が日本を代表する貿易港・国際都市として発展していく、大きな原動力となった。
神戸の居留地はしばしば「東洋一美しい居留地」といわれた。この居留地を設計したのは、英国・リバプール生まれの土木技師、J・W・ハートであった。ハートは上海で船渠の築造に携わった後、1868年に来神し、居留地行事局の技師として、海岸の埋め立て、護岸、下水道の設計など、居留地の計画と施行監督などにあたった。1868年8月26日付の英字新聞『THE HIOGO & OSAKA HERALD』には、ハートが土木技師として開業した旨の広告が掲載されている。ハートが1872年に作成した神戸居留地の造成計画図には、街割りが126区画に整然と分けられ、広々とした道路と歩道、雨水排水などの下水道が設けられている。また、居留地内の西端にパブリックガーデン、海岸に沿ってプロムナード、生田川堤防跡を利用したレクレーション・グランド(現在の東遊園地)を見ることができ、街づくりが当初から非常に計画的に行われたことを知ることができるのである。
ハートは1873年に神戸を去り、上海で上水道を完成させた後、明治33年(1900)に故郷・英国で63歳で没した。しかし、ハートが神戸の居留地に残した当時の街割りや地番は、150年近くを経た現在も生きている。中でも、旧居留地15番館(国指定重要文化財)は居留地当時から残る唯一の建物で、平成7年の大震災で倒壊後、免震構造を取り入れて復旧し、現在はレストランとして使用されている。