9月号
北野とE・H・ハンター
北野坂の西側に、「ハンター坂」と呼ばれる通りがある。かつてこの坂の北側に、英国商人E・H・ハンターの洋館があったことに由来している。
1843年にアイルランドで生まれたハンターは、アジアに憧れ、22歳で来日した。ペリー来航後、安政6年(1859)に開港していた横浜港で、ハンターは雑貨やマッチの輸入商キルビーと出会い、商社員としてその実務を助けた。慶応3年(1867)の兵庫開港にあたり、キルビーが新境地として神戸に向かうと、ハンターもこれに同行し大阪に移住。小野浜にできた造船所に入った。ここで、薬問屋・平野常助の娘、愛子と知り合い、結婚。長男の龍太郎はじめ5子に恵まれた。
その後、明治7年(1874)に神戸にE・H・ハンター商会を、明治14年(1881)には大阪で大阪鉄工所を創設する。船舶のみならず、陸用機関機器、橋梁の製作も手がけた。三菱造船、川崎造船と並ぶ日本三大造船所に成長した大阪鉄工所は、後に日立造船へと発展することになる。この他、煉瓦や肥料、煙草、精米、損害保険など次々に事業を起こし、「範多財閥」を形成した。
事業を成功させたハンターは、地元有志より北野天満神社の周辺一帯3000坪の土地を譲り受け、北野の地に自らの“理想郷”をつくった。広大な敷地内に立派な日本家屋を建て、庭に植えた桜を眺めながら晩年を過ごしたのである。この桜は、現在ではハンターの妻に因んで『愛子桜』と呼ばれる夫婦桜として生き続けている。
ハンターは、日本家屋建築の少し後に、同敷地内に瀟洒な洋館を移築しているが、こちらは昭和38年に王子公園に移築され「旧ハンター住宅」として国の重要文化財に指定されている。一方、日本家屋は北野に残され、今日では「北野ハンター迎賓館」の名で、着物が映えるブライダルの場に活用されている。
大正6年(1917)75才で死去したハンターは、神戸の再度山修法ヶ原外国人墓地に、妻の愛子とともに静かに眠る。その名前は、「ハンター坂」という名前とともに人々の記憶に刻まれている。また、このハンター坂から、「にしむら珈琲」や「フロインドリーブ」といった神戸を代表する名店が生まれたことも、忘れてはならないだろう。