2月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の参拾五~
徳川頼宣(とくがわよりのぶ) 1602~1671
前回ご紹介のように1651年、幕府転覆を狙った由井正雪の乱は失敗します。ところが正雪が自刃した現場に残されたちり紙には「紀伊大納言様」、つまり家康の十男にして紀州徳川家家祖の徳川頼宣のことが書かれておりました。正雪はこの遺書に、頼宣の名を借りて仲間を集めたと記したのでございます。
そんなこともあって、頼宣が黒幕じゃね?という噂が。そもそも正雪は増え続ける浪人をなんとかしようと蜂起しましたが、頼宣も同じ問題意識を持っていたようで、大坂の陣で敗れし豊臣方からあぶれた武士を多く召し抱えております。しかも正室は豊臣の重臣の娘。そして兄の秀忠から紀州に左遷され、幕府の官僚政治化が進む中で甥の家光の支配下にある一大名に甘んじるを得なかったという境遇…反旗を翻すだけの理由がうかがえて、疑われてもやむなしよね。
それで頼宣は幕府に喚問され、正雪の家から出てきた自身の花押のある書状を突きつけられます。ところが「これが外様大名の名なら計略を疑われるだろうが、徳川直系の我が名の偽書なら心配なかろう」と、ぶはは!と笑って嫌疑を晴らしたとか。「重く受け止めます」とかテキトーに答えて逃げ回る誰かさんとはまるで器が違いますな。
そんな胆力を見抜いていたのか、家康は頼宣にことのほか目をかけ、幼い頃はずっとそばに置き直々に英才教育。熱海湯治にも連れていきます。これが原体験となったのか、頼宣はやがて立派な温泉好きに育ちました。紀州では湯崎=白浜に通っていたようですが、もちろん有馬温泉にも来湯しております。しかも3回も!
頼宣と有馬の接点はほかにも。頼宣の重臣、有馬吉政の祖先を遡ると本連載其の拾四でご案内の赤松則祐の五男、有馬地頭で有馬氏初代でもある有馬義祐にたどり着きます。で、吉政の養子の嫡子の有馬氏倫は、頼宣の孫にあたる八代将軍吉宗の御側御用取次で、『暴れん坊将軍』シリーズ終盤の「じい」、名古屋章さん演じる有馬彦右衛門のモデル。有馬ゆかりのお家柄が将軍を支えたということですね。
これとは別の有馬の家系との縁も。頼宣が江戸で具合が悪くなった時、たまたま居合わせて治療したのは摂州有馬の生まれの医者、有馬玄哲でした。それがきっかけとなり、玄哲の息子の涼及から有馬家が代々紀州藩医を務めるようになったとか。
余談ですが、国宝の短刀「九鬼正宗」は前々回ご案内の小早川隆景から有馬と関係が深い三田藩の系譜となる九鬼家に与えられ、その後家康を経て頼宣の手に渡ったそうです。そんな有馬リレーを経て、現在は岡山の林原美術館が所蔵しております。












