11月号

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 114 車椅子の詩人
「百歳になりました」。
お元気な声だった。
これは昨年七月、拙著『湯気の向こうから』をお贈りした時にもらった電話である。
そして「もう手紙が書けなくなってしまいましたので」と淋しいことをおっしゃった。
七年前にこの欄に登場していただいた宍粟の詩人西川保市さんのことである。
このほど久しぶりに西川さんの声を聞きたくなって電話をかけた。すると夫人が出られて「保市はこの春に亡くなりました。百一歳でした」と。わたしはしばし声を失った。
迂闊だった。あれから一年以上経っている。
西川さんと最初にお会いしたのは、もう30年ほども昔になるだろうか。加古川で催された詩の会に出席した時。しかしその時、どんな会話をしたかは覚えていない。多分挨拶程度だったのだろう。
その後、西川さんの人間味あふれる詩に魅かれてお付き合いを続けていたのだが、ある時いただいた手紙に驚かされた。
《岡山の詩の教室に通っていますが、そこで今村さんの詩集『コーヒーカップの耳』が教材になりました。》
というもの。わたしの知らないところでわたしの詩集が教材にされていたなんて全く思いがけないことだった。
その教室の講師が岡山の詩人、坂本明子さんだった。
2001年に出したその詩集は多くの人に献呈し、ほほすべての方から返事をいただいていた。しかし、坂本さんからは何の反応もなく、わたしは無視されたものと思いこんでいた。評価されなかったのだと。まさかご自分の教室で教材にされていたとは。
その坂本明子という詩人のこと、気になりながらも彼女の詩集を読む機会がなく今日まで来てしまった。
今回、忘れていた宿題を果たす気持ちで『坂本明子詩集』を入手して読んでみた。その詩のことは置いておいて、彼女が重度の身体障がい者だったことを初めて知って驚いた。勉強不足が恥ずかしい。
そこでもう一冊、エッセイ集を読んでみることにした。
『車椅子のつぶやき 一〇八センチの視座』(1988年・あすなろ社刊)。
坂本さんは生後11カ月で脊髄小児麻痺症に罹り、両下肢不自由の身になる。
「生い立ちのこと」という項の冒頭にこんなこことが書かれている。
《「就学ヲ免除ス」といういかめしい文句の紙片が、市役所学事課から届いたのは私が数え年八歳の早春だった。》
坂本さんは大正11(1922)年生まれ。八歳なら昭和の初めか。ちなみに西川さんは1923年生まれ。一歳違いなのだ。
《当時は養護学校も特殊学校も、つまり心身障害児のための学校の受け入れ機関はゼロだったから、義務教育を免除してやると恩きせがましい口調で、実はそのまま放置されたのだ。》
そこから父親が彼女の教育に力を注ぎ、立派な詩人になってゆく過程が綴られている。あの時代に女児の教育に力を尽くすこんな素晴らしい父親がいたのかと感動させられた。
ほかにわたしの心に響いた言葉を上げよう。
《バスは車体が高く、高い位置から街が見えるのが珍しく、…》
これは初めてバスに乗った時の彼女の驚き。これも当たり前の、でも彼女には新鮮だったのだ。
《私の生活には足跡はないな、と思う。》
仕事とか生き方とかを称して「人生の足跡(そくせき)」というような言い方を一般的にはするが、彼女がここでいう「足跡(あしあと)」は比喩ではなく、そのままの意味だ。
《猫や犬にも足跡はあるし、鼠が走る足音もあるのに、わが足には跡はつかず、足音も立たず、まるで忍者のように生活空間を渡ってきたのだし、これからもそうするだろう。太いいのちの綱だけを頼っての仕事だ。》
詩人として生きる覚悟のようなものが見える。
そうか、西川さんはこのような詩人を師とされていたのか。それであのような人間味あふれる詩が書けたのか。わたしは知るのが遅すぎた。

(実寸タテ11㎝ × ヨコ16㎝)
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・代表者。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。












