8月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊵後編 稲垣足穂
稲垣足穂
〝ハイカラな街〟神戸を愛し続け…文豪たちが認めた孤高の作家
神戸への憧憬
将来はパイロットになろうと、大空に憧れた飛行機好きの少年、稲垣足穂は大阪市で生まれ、兵庫県で育った。なかでも神戸で過ごした青春時代が、後に作家となる足穂の人生に多大な影響を与えた。
足穂の自伝「タルホ神戸年代記」(第三文明社)の中のタイトル「神戸漫談」に、彼の〝神戸愛〟を証明するような、こんな一文が綴られている。
《伊藤貴麿氏であったか、神戸は人が考えているように面白いところではないと云ったが、そんなことを云い出したら、アムステルダムだって香港だって、その他のどこだって、いやしくも現実という名のついたところでは同じことだ。イナガキタルホのかくような神戸はないかもしれない》
いかに足穂が自分が育った神戸という街にこだわり、愛着を抱いていたかが滲み出るような文章が、さらにこう続く。
《だが、それは神戸に於て遊離されたるもの――神戸の幻想だ。これをのぞいて芸術家の職分はどこにあるというのだろう?――よし又現実的に見たって、神戸ほどハイカラな街は日本中にはない。伊藤氏も神戸出身だというわりには、神戸の面白い方面を知らないと見える》
神戸が貶められることを、自分が否定されたかのように哀しみ、また、故郷を侮辱されたかのように怒りを表す。
伊藤自身も神戸生まれの児童文学作家で、「西遊記」などの日本語訳を担当した名翻訳家だ。足穂より7歳年上で、作家ならではの〝天邪鬼な気質〟で、あえて故郷の神戸を突き放してみたかったのかもしれない。
だが、足穂はたとえ先輩であろうと、自分がおかしいと感じたものには徹底して逆らい、嫌われても〝モノ言う気質〟だった。
文学で叶えた大空への思い
足穂は、航空学校の受験、そして複葉機の製作にも失敗し、航空界への道を絶たれた後、単身上京。
今からちょうど一世紀前。1923年、「一千一秒物語」(金星堂)で作家としてデビューを果たした。
他の出版社に没にされた原稿を、重鎮作家の佐藤春夫に送ったところ、その文才を認められ、佐藤の門下生となるのだ。
佐藤の弟の家に居候しながら執筆し完成させた「一千一秒物語」は、一作目にして足穂の代表作となる。
読者のイマジネーションをかき立てる、この題名も佐藤のアイデアから生まれたという。
佐藤は足穂にとって大恩人のはず。だが、「文藝春秋」を創設したジャーナリスト、菊池寛の作品を、佐藤が褒めたことに立腹し、足穂は佐藤のもとを去る。
彼の〝モノ言う気質〟はここでも抑えることができなかったようだ。そして、足穂は東京から明石へと戻り、文壇からも距離を置くようになる。
関学普通部(旧制中学)の同期生だった今東光も「文藝春秋」を追われ、文壇と袂を分かつことになったが、足穂といい、神戸ゆかりの作家は、なぜか、菊池寛とは相性が悪かったようだ。
ただ、そんな喧嘩っ早い足穂や東光ではあるが、彼らほど多くの文豪たちに愛され、また高く評価された作家はいないかもしれない。
東光の親友だった芥川龍之介は、足穂を「大きな三日月に腰掛けているイナガキ君(中略)…君の長椅子には高くて行かれあしない」と評し、星新一はSF作家らしく、足穂の文学を、「ひとつの独特の小宇宙が形成され…」と称えた。
これら文豪たちの高い評価は、足穂が世間からなかなか認められ難かった作家だったからかもしれない。
「稲垣足穂氏の仕事に、世間はもっと敬意を払わなくてはいけない」。こう評したのは三島由紀夫である。「小説家の休暇」(新潮文庫)の中で三島は「そのエッセイ的小説、小説的エッセイは、昭和文学のもっとも微妙な花の一つである」とも綴っている。
「タルホ神戸年代記」のタイトル「神戸三重奏」の中で、足穂が神戸の摩耶山について書いたこんな一文がある。
《摩耶山上の天上寺へ、私は一度、何の変哲もない急な山道を伝って登って行ったことがある(中略)。ではそこからの展望は……これは勿論すばらしい、眼下の海は、ビリヤードの緑色のラシャのように、その所々に大小の船々をばら撒いて、平べったく一面に、一つのしわも見せないで打ち拡がっていた》
文豪たち曰く、「三日月に腰かけながら、独特の小宇宙を形成し、微妙な花のようなエッセイ的小説…」を書き続けた足穂。その唯一無二の俯瞰した視座は、彼が少年時代に神戸で見た、こんな原風景のなかで育まれたに違いない。
=終わり。次回は登山家、加藤文太郎。 (戸津井康之)