1月号
神仏習合の聖地 高御位神宮を訪ねて
隕石が墜ちた山
加古川市と高砂市の境をなす標高304mの高御位山。その美しい山容から「播磨富士」ともよばれるこの峰には、並んで聳えていた牛山という山と喧嘩して投げ飛ばしたとか、おこぜを奉納すると願いが叶うとか、いろいろな伝説がある。
その1つに、次のような逸話がある。人類誕生のはるか昔、いまから650万年ほど前のこと。隕石が金星から地球へ飛来し、天空で3つに割れて地上に墜ちた。その場所は、1つは京都の鞍馬山、1つは紀州の熊野大社、そしてもう1つがここ、高御位山の頂上だったという。この不思議な言い伝えは、江戸時代に代々綾部藩主を務めていた九鬼家に伝わる門外不出の文献、『九鬼(くき)文献』に載っていたそうだ。残念ながら文献は太平洋戦争の空襲で焼失しているが。
高御位山の頂上には天の御柱が立っている。それはいまから約2500年前、第五代の孝昭天皇が、隕石が落ちた聖地ゆえにここを正月にお祀りしなさいと、九鬼家の先祖である天児屋命(あめのこやめのみこと)の子孫に命じたことが由来になっているとか。『九鬼文献』には「当山を高御位山と称するは世界天皇の始祖天御中主大神の岩築室の存するに因り此の称起こると伝へらる」とある(この記述から、高砂の「石の宝殿」との関係も深そうだ)。
そういう場所であるから、後醍醐天皇の頃まで高御位山の山頂で祭祀がおこなわれていたが、北朝が権力を得てからは表だった祭祀ができなくなり、伝承の世界に閉ざされてしまった。
高御位神宮の創建
諸説があるが、九鬼家は前述の天児屋命から中臣鎌足・藤原不比等父子を経て藤原一族となり、その後熊野別当職を代々務め、やがて九鬼姓を名乗り、信長の時代には九鬼水軍として怖れられた。しかし、江戸幕府により本家は三田、分家は綾部と海から離れたところに移封され、そのまま近代を迎える。
高御位神宮を創建したのは、綾部の九鬼家直系の九鬼隆治という人物だ。父は綾部藩最後の藩主、九鬼隆備(たかとも)。福沢諭吉の進言で三田藩主から実業家に転身して神戸で志摩三商会を起業した九鬼隆義の甥にあたる。
隆治は大正10年、皇道宣揚会を立ち上げ、その協賛員には近衛文麿、鳩山一郎、板垣征四郎などが名を連ねている。そして昭和4年の昭和天皇即位の御大礼で使われた材木が下賜され、昭和9年、この材を主材に高御位山の麓に本庁や修養道場を建てたが、これが高御位神宮のはじまりだ。当時は合気道の創始者、植芝盛平もここで武術を教えていたという。
戦後、皇道宣揚会は高御位神宮として再出発。その後しばらく隆治の息子、九鬼宗隆がここを守っていたが、熊野大社の宮司となり息子の九鬼家隆氏に継承、やがて彼も父と同じく熊野本宮大社へ移り、現在も宮司として活躍している。高御座神宮の宮司職は紆余曲折を経て、大阪、諏訪神社の宮司であった朝田寿海氏、さらに朝田氏を師とする福岡史晃さんに継承されて現在に至る。
古式ゆかしき信仰をいまに
このように高御位神宮の歴史は社寺としては比較的新しいが、その信仰は古い時代の神仏習合のスタイルを頑なに守っている。基本的に毎月第一日曜日におこなわれている月次祭の日は、まるで太古の時代にタイムスリップしたかのようだ。
午前中には神様の前で祈りを捧げる。太鼓の音とともにはじまり、礼拝し、祝詞をあげ、扇や刀剣をなどさまざまな神具を手にして宮司が軽やかに、しかし厳かに神楽を舞う。
「一般的な神社では東西南北の四方にしかお祓いしないのですが、ここでは一切省略せずに八方お祓いをするんです。神楽を舞うのは神様だけでなく、ここにお参りされた方や信者さんの住んでいる家を祓うためでもあるんですよ」と宮司。立ち座りを何度も繰り返し、本殿の中を行ったり来たり。ぐるりと回れば良い訳ではなく、きちんと移動場所の順序が定められているのだそうだ。
そして昼からは隣の部屋に場所を移し、千願供養(先祖供養)と護摩焚きがおこなわれる。護摩木に託された願いが、燃えさかる炎と般若心経に包まれて煙となり、不動明王に見守られながら天へと昇っていく。
護摩を焚く修験道と言えば役行者が始祖のように思われるが、実はそれ以前から受け継がれてきたもの。ここでの作法は真言や天台の密教でおこなわれものとはとは少し違い、むしろそれ以前の古式にのっとっているようだ。山伏姿の宮司は独自の所作で願をかける。
襖一枚を隔てて「かしこみかしこみ」と「色即是空空即是色」、二礼二拍手一礼と焼香合掌。このような神仏習合は日本の宗教の原風景ともいえるが、明治政府の廃仏毀釈政策で神仏の分断を余儀なくされた。九鬼隆治はその状況に危機感を覚えたのであろう。古来の「祈り」を守るため高御位神宮を創建した。その時代が昭和初期だったために神仏分離令の強制を受けず、古き佳き時代の神仏習合の祈りを守ることができたという訳だ。ちなみに、宗教法人としては神道と修験の2つの登録になっている。
神と仏は表裏一体
ご祭神は、まさに神仏のオールスターだ。主祭神は天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおがみ)。最初にこの世に現れた神様だ。その両サイドに素蓋鳴神(すさのおのかみ)や大国主神(おおくにぬしのかみ)など八柱の鬼門八神、そして伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)や伊弉冉大神(いざなみのおおかみ)ら八柱の鬼門大金神をお祀りしている。さらに熊野大権現の十二菩薩=阿弥陀如来や釈迦如来ほかもお祀りされていて、都合49もの神仏が集っている。また、件の隕石も秘宝として収められている。
方位を司る神々がおはすことから、土地のお祓いの依頼が多いという。建築現場などでも端から端まで、回り方の順番もあるので行きつ戻りつていねいにお祓いをするので大変で、「エキスポランドでは車で移動したんですよ」と宮司。竹中工務店との関係が深く、あべのハルカスは工事開始前から完成前まで8年間、隔月で安全祈願をしたそうだ。
さて、それまでは「知る人ぞ知る」存在の高御位神宮だったが、時代の流れにあわせてもっといろいろな人たちのお役に立ちたいと、例えば家相の相談や地鎮祭なども積極的に承り、最近はホームページの開設など広報活動にも力を入れている。参詣すれば御朱印もいただけ、授与品も充実。御神酒はワインと粋だ。ドライブやハイキングがてらにでもちょっと立ち寄って、日本人の「心のふるさと」である神仏習合にふれてみたい。そして何かを得たら、ぜひ奉賛会に加入しよう。
そもそも神道にドグマがないのは、宗教という概念よりも前から存在するからに違いない。修験道のベースとなった山岳信仰ともなればそれよりも昔からある。人間は神様の分け御霊。そして人は亡くなればみな仏様。ゆえに、己を律し、他人を敬うことが人の道だということを、ここ、高御位神宮が伝えているのだと思うし、それこそがコロナに疲れ、戦争が続くこの世界に求められているものではないだろうか。
「神仏は裏表。両方に手を合わせることが大切なんですよ」という福岡宮司のことばが、スッと胸に染み入った。
宗教法人 高御位神宮神祇本庁
宗教法人 熊野修験道本庁
兵庫県加古川市志方町成井486-1
TEL.0794-52-3648
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