10月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.23 布施 明さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。第23回は、シンガー・ソングライターの布施明さん。
ミュージックシーンを駆け抜け57年…
歌声の〝刀〟の切っ先はいまだ鋭く
〝よみがえれ”に込めた熱意
「半世紀以上、歌い続けることができた理由?さびついた〝刀〟では、聴く人の心の中へは絶対、歌を届けることはできません。心の奥底にまで鋭い刀の切っ先を突きつけないと歌は届かない。だから、そのためにずっと刀を磨き続けてきたつもりですよ」
1965年のプロデビューから今年で57年。今も第一線のステージに立ち続けている。それを支えてきたエネルギーは、どこから生み出されるのか。聴く者の心を震わせる、その歌の力の源泉を知りたかった。
「では、歌手にとっての〝刀〟とは何か?」。そう問い返すと、少し考えた後、、自信を込め力強くこう言い切った。
「それは歌への思いを込めた強い〝気持ち〟。それしかないと思います…」
新たな全国ツアーがスタートした。
10月1日、埼玉県を皮切りに、11月4日の京都、来年2月5日の大阪、そして4月1日の東京まで。ロングランで全国をまわるツアーのタイトルは「よみがえれ 昔日の情熱 AKIRA FUSE LIVE TOUR 2022〜2023」。
「実は最初に考えていたタイトルは〝昔日の情熱〟だけだったんです。〝よみがえれ〟は、自分の心の中だけの声でいいかな…。そう思っていました。でも、どうしても、心の中に閉じ込めておくことができなくなって。結局、〝よみがえれ〟もタイトルの中に入れることにしました」と打ち明けた。
ツアーに合わせて10月1日、セルフカバー・ミニアルバムを発売した。
「自分がこれまでに作った4曲をセルフカバーしました。アルバム用に曲を選ぶときに、なかなか絞り切れなくなってしまって。本当は、もっと曲数を増やしたかったのですが」と語る。
「最後まで悩みながら…」選りすぐって収録したのは、「勝手に想い出」、「YOKOTA AIR FORCE TOWN」「ホテル・プルメリア」、「ついて来るなら」の計4曲。
「私が30代の頃。いずれも1979〜1980年に発表した思い出深い曲なのですが…」と前置きしたうえで、「米軍の横田基地のある〝YOKOTA〟は、音楽を志す私にとって原点のような街でした。でも、実は横田という名前の市は存在しないのですよ。東京都福生市や立川市など6市町にまたがっている広大な米軍の基地。私の青春時代の思い出が詰まった地。それがYOKOTAなんです」
2曲目の「YOKOTA―」を選んだ理由について、自身の音楽のスタート地点を振り返るように語っていく。
開花した才能
1947年生まれ。東京都三鷹市で育った。横田基地に近い都立府中高校で青春時代を送り、途中、都心の豊島実業高校(現豊島学院高校)へ転校する。高校在学中、18歳で、プロの歌手としてデビューしたのだ。
幼い頃から歌が好きで、その歌唱力は突出していた。高校時代に日本テレビ系の歌のオーディション番組で合格し、渡辺プロダクションにスカウトされた。同じ事務所には、憧れの大先輩「ザ・ピーナッツ」がいた。
その翌1966年、「霧の摩周湖」が大ヒット。
代表曲の一曲となる、この名曲の誕生秘話を教えてくれた。
「この歌を作曲してくれた平尾昌晃さんは私の師のような存在でした。当時、平尾さんが住んでいた神奈川県茅ヶ崎へ行ったとき。湘南の海を見ながら平尾さんが、『色白の布施には、この海は似合わないなあ。湖がいいんじゃないか』と言いだし、即興でギターでメロディを弾き始めたんです。平尾さんのギターに合わせて私が歌って…。そうして、完成したのが『霧の摩周湖』だったんですよ」
5年前の2017年、平尾さんは79歳で亡くなるが、その年に営まれた音楽葬で、この「霧の摩周湖」を師に捧げた。
大ヒット曲誕生の制作秘話は、まだまだ続く。
時代を超えて人々の心を魅了し続ける布施さんの代表曲の一曲「マイ・ウェイ」。
1967年に作られたフランス語の曲を気に入ったポール・アンカが、新たに英語で作詞し、69年、フランク・シナトラが歌い世界中で大ヒットした名曲だ。
「事務所の先輩の音楽家、中島潤さんが『マイ・ウェイ』の日本語訳を作っていたのですが、突然、彼が亡くなったんです。私は何とか中島さんの名前を後世へ残したいと思って、その一心で、シングルレコードのB面に、中島潤訳詞の『マイ・ウェイ』を録音することにしたんです」
ところが、いざレコーディングが始まってみると、「思いがけない展開になっていって…」と言う。
「当時、私はまだ22歳。録音スタジオで、《今~、黄昏~、近づく~人生に…》と私が『マイ・ウェイ』を歌い始めると、周囲から、『22歳の君には〝黄昏〟なんて言葉は、まだまだ似合わないなあ』とさんざん言われてしまって。そこで、私は即興で、『今~、船出が~、近づく~、この時に~』と代替案の歌詞を考えながら歌ってみせたら、『それがいい。その歌詞に変えよう』と採用されたんですよ。B面の曲だし、それで構わないだろう。当時は、そんな軽い気持ちだったんです」と笑いながら明かしてくれた。
こうして1972年、シングル版「愛すれど切なく」のB面に収録された「マイ・ウェイ」が、半世紀以上経っても色褪せることのない不朽の名曲として、多くの日本人歌手によって今も歌い継がれている。布施さんが怒られながら即興で作った歌詞の出だしで…。
「ようやく、この歌を歌うにふさわしい年齢になってきたのかなあと、今、コンサートなどで歌っていて、そう実感しています」と布施さんは笑った。
大ヒット曲誕生の裏で
そしてデビューから10年が過ぎた1975年。
日本を代表する歌手―。その称号、地位を確立するきっかけとなった大ヒット曲が生まれる。
シンガー・ソングライターの小椋佳さんが作詞・作曲した「シクラメンのかほり」を歌い空前の大ヒット。その年の日本レコード大賞など音楽賞を総なめにするのだが、布施さんは、このヒット曲が生まれた背景、そのあまりにも意外な裏話を打ち明けた。
「最初にこの曲を聴いたとき、こう思ったんです。これは絶対にヒットしないだろうなと。でも、その方が都合がいい。そう、私は密かに喜んでいたんですよ」
なぜ、そんなことを考えたのか?
「実は、もっと歌の勉強をしたかったんです。しばらく歌手活動を休業し、海外で留学でもしよう。そう思っていた矢先でした」
ところが、「シクラメンのかほり」は105万枚を超えるミリオンセラーとなり、布施さんのこの目論見は崩れ去る。
「長期休暇どころか、毎日この曲を歌い続け、休みなどとれるはずはなく翌年、夏休みをほんの少しもらっただけで」と苦笑した。
この4年後。1979年にはCMソングとなり、街中で流れた「君は薔薇より美しい」が大ヒット。
「ミッキー吉野さん(ゴダイゴ)が作曲してくれました。ミッキーさんには、こういう風に、ジャズっぽく歌ってほしいとリクエストされて…」
全身でリズムを取り、出だしの部分を口ずさみながら説明してくれた。
常に音楽シーンの第一線を駆け抜け、バラードからアップテンポの曲まで幅広く歌いこなす国民的人気歌手に上り詰めていく。
「3年後の2025年にデビュー60周年を迎えるんですよ。それまでは歌い続けたいですね。その後? どうなりますかねえ」
そう語った後、すぐに「でも待てよ。シャルル・アズナヴール(フランスを代表する歌手)は94歳まで、トニー・ベネット(米国の人気歌手)は96歳まで現役でしたからね。まだまだ歌えるかな…」と、敬愛するレジェンドたちの名を挙げながらしみじみとこう口にした。
まだまだ〝刀〟を磨き続けていく覚悟だ。
(text.戸津井康之)
布施明プロフィール
1965年デビュー。代表曲は「霧の摩周湖」(1966年)、「愛は不死鳥」(1970年)、「積木の部屋」(1974年)など。「シクラメンのかほり」(1975年)で第17回日本レコード大賞を受賞。「君は薔薇より美しい」(1979年)のスマッシュヒットで国民的歌手の座につく。
代表的な名演をフルオーケストラ録音したアルバム「Way of the Maestro」(2012年)を発売。自らが想いを込めて綴った応援歌「まほろばの国」(2021年)で新境地を開く。
俳優として多数の作品に出演。映画『男はつらいよ~飛んでる寅次郎(第23作)」『ラヂオの時間』、テレビドラマ『WATER BOYS』『仮面ライダー響鬼』ミュージカル『オケピ!』など。また小説家、エッセイストとしても知られる。