9月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉙前編 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎
神戸から名作を繰り出した文豪の素顔
繰り返される映像化
明治生まれの文豪、谷崎潤一郎(1886〜1965年)が遺した小説の世界観は、令和となった今も、日本人の心を魅了し続けている。現在まで小説の多くが原作となり映画化が繰り返されていることも、その一つの証明といえるだろう。谷崎は東京で生まれ育ったが、関東大震災後、関西に移り住んでから、数々の長編小説の名作を手掛けている。その中には神戸で家庭を築き、生み出した傑作も少なくない。
若くして文豪と呼ばれた谷崎だが、決して恵まれた環境で育ったわけではなかった。祖父は実業家として成功するが、父の代で事業は傾き、家計は困窮し、尋常高等小学校からの進学が危ぶまれた。住み込みで家庭教師をしながら、東京都立の現日比谷高校に進学し、苦学しながら東大へ。だが、苦しい家計は変わらず、学費未納で大学を中退している。
一方、学生時代から小説を書き続け、処女作の短編「刺青」(1910年に「新思潮」で発表)が文壇を賑わし、20代前半で一躍、作家として脚光を浴びる。
人気小説の「刺青」の世界観は時代を経ても色褪せず、1966年に増村保造監督が、若尾文子主演で映画化して以来、瀬々敬久監督版(2007年)など、2009年まで5回、映画化され、テレビドラマも含め映像化が繰り返されてきた。
また、「刺青」と同様、数多の監督が、その唯一無二の活字の世界観に魅了され、繰り返し映画化してきた谷崎作品の代表的な一作として、「細雪」が挙げられるだろう。
神戸を愛した文豪
1923年、箱根にいたときに関東大震災に遭った谷崎は、横浜の自宅が火事で焼けたため、初めて関東から関西へと引っ越してくる。
この関西での生活が谷崎の人生に大きな変化をもたらす。
「震災の明くる年の九月に芦屋へ逃げて来て、その翌年の春今の岡本へ家を持ったのは、つい此の間のような気がするのだが、もう足かけ六年になる」
エッセイ集「陰翳礼賛・文章読本」(新潮文庫)の中の、「岡本にて」の項で、谷崎はこう綴っている。
〝引っ越し好き〟で知られた谷崎は、神戸へ新居を構えるまで転居を繰り返していた。
だが、谷崎は、神戸の岡本に建てた家に、1936年から43年までの7年間住み続けた。神戸での生活がいかに心地よかったかを、谷崎はこう明かしている。
「元来私は以前から移転好きで、生まれたのは日本橋のまん中だが、自分が一家を構えるようになってから、本所の小梅を振出しに、本郷、小石川、相州鵠沼、小田原、横浜と云う風に転々として住居を変え、一つ土地にまる二年と居たことはないのに、それが岡本ではすっかり癖が止んでしまった」
79年の生涯で計約40回も引っ越した谷崎が、こう語るのだから…。
当時、谷崎は3人目の妻となる松子と結婚。岡本に建てた家で執筆し、名作を輩出する。
その一つが「細雪」だった。
《「別に取り立てて風情もない詰まらないこの庭だけれども、此処にたたずんで松の樹の多い空気の匂を嗅ぎ、六甲方面の山々を望み、澄んだ空を仰ぐだけでも、阪神間ほど住み心地のよい和やかな土地はないように感じる」》
小説「細雪」の中で、四姉妹の次女、幸子が東京へ出かけた際、神戸を想った一節だ。
幸子のモデルは谷崎の妻、松子である。
谷崎は松子との生活を岡本のこの家で始め、松子ら、近代化を遂げた〝阪神間モダニズム〟の時代を生きた四姉妹をモデルに、大正から昭和初期にかけての阪神地域の上流家庭の絢爛豪華な生活文化を、そして、それが崩壊していくさまが、「細雪」の中で綴られる。
谷崎にとっての大きな転機ともなった、この岡本の家は「倚松庵」と呼ばれる。別名の愛称は「細雪の家」。
「倚松庵」の意味は、「松によりかかる住まい」。つまり「松」とは松子のことだ。
谷崎亡き後、「倚松庵」は都市開発の計画で、取り壊される危機もあったが保存されることが決まり、1990年、同じ東灘区内に移築され、現在は一般公開されている。
また、芦屋市伊勢町には「芦屋市谷崎潤一郎記念館」が建設され、谷崎の直筆の原稿や書簡など資料が展示され、一般公開されている。
今も谷崎の息遣いを感じることのできる空間が神戸界隈には多く遺されている。
=続く
(戸津井康之)