3月号
触媒のうた 37
―宮崎修二朗翁の話をもとに―
出石アカル
題字・六車明峰
宮崎翁の快著『柳田國男トレッキング』(編集工房ノア・2000年刊)を読んでいて「ほほーっ」と目にとまった話があった。
「方言・地名をめぐる笑い話」の章の「辰野隆(ゆたか)博士とアケビの思い出」という項である。
――豪邸の多い芦屋市の住人であるわたしは、小宅を「毫亭」と名付けている。毫――細い毛、小さなことの譬えに使う。狭い庭を立体的に利用するため、キウイとアケビの鉄骨パーゴラをしつらえたことが、阪神淡路大震災のとき耐震効果を上げたという話はさておき……
『方言覚書』(定本柳田國男集18)の「煕談(きだん)日録」には、アケビの語源が果実の朱実(あけみ)ではなく「秋ムベ(郁子)」であると説かれている。ムベの実は開裂しないのでムッと口をつぐんでいるからとは俗説、と柳田は書いてないので、わたしはかたくなにアケビは「開実(あけみ)」説を守っている。
フランス文学の泰斗辰野隆博士を山崎闇斎の生地だという――播磨の宍粟(しそう)郡は山崎という町へご案内したことがあった。地元有志の歓迎会があって、宴たけなわともなればお決まりの地元民謡のご披露となった。
♪宍粟山崎門前屋の婆が 酒の肴にボボ出した
これがこの地方のY歌のエース、歓待に最高の肴なのだ。博士は大いに哄笑なさり、やがてモーパッサンの『脂肪の塊』は『油饅頭』と訳すべきで、饅頭とは、などと蘊蓄をご披露なさって応じられた。
一夜明け、お好きな朝酒を差し上げながら「季節が秋でしたから、おいしいボボをご馳走しましたのに」と申し上げると怪訝な顔をなさった。「この辺ではアケビをボボと呼ぶのです。あの表皮を茹でて、油いためにしたのが甘味噌と合いまして、ほのかな苦味が酒の肴には……」
「あ、ゆうべの歌はそうでしたか……」と合点していただき、果実をモモ、ボボと呼ぶ地方が多いことや、共に出身が佐賀県である奇縁から、肥前地方のくさぐさに話の花が咲いたことだった。方言の地域・孤立化は、時にコミュニケーションの混線や喜悲劇までも惹起することがある。――
引用が長くなったが、この後も下半身の話がもう少し続く。でも柳田國男だけではなく、あの“夜這い”の民俗学者として著名な赤松啓介との親交もあった宮崎翁にとっては捨て置けない話でもあります。
辰野隆――1888年~1964年。文学博士。フランス文学者。東京大学仏文学部主任教授。1962年、文化功労者。教え子には、三田市で育った三好達治、但馬出石藩の後裔小林秀雄、神戸育ちの今日出海、ほかにも中村光夫、森有正など。その他、中学以来の友人に谷崎潤一郎。また、父親の辰野金吾は東京駅の設計者でもある。
「あれは辰野博士の晩年のことでした。わたしに案内の依頼がありましてね、大阪駅までお迎えに行きました。そこから姫路へ行って、龍野へ行って、龍野から今度は山崎へ回りました」
いつもながら、翁は昔のこともよく覚えておられる。
「しかし博士はもういささか衰えておられましてね、ある一つの話を、ぼく何度も聞かされました。何かの話に結びつけては同じ話題を持ち出されるんですよ。ぼくも意地が悪いね、「これは?」と思ってある時から数え始めたんです。するとね、わずか二日間のお供で同じ話を18回されました。その時のことは『柳田國男トレッキング』にもちょっと書いてますが、モーパッサンの代表的な小説の、『脂肪の塊』という題のことです。「脂肪の塊」は娼婦のことなんですがね、博士はこうおっしゃるんです。『それでは何のことか分からないだろう?それでぼくが思いついたのは「油饅頭」なんだ。これは名訳だよねえ』といった話を何度も。余程その訳が気に入っておられたんでしょうね、話を合わすのに苦労した覚えがあります」
その話を聞いてわたし、ちょっと調べてみました。すると、モーパッサンの『Boul de suif』という原題の小説は日本では20人以上の人によって翻訳されているが、みな「脂肪の塊」と訳されている。しかし中に一回だけ「あぶら饅頭」というタイトルの訳本が出ている。『モーパッサン選集』4(太虚堂書房・昭和23年7月刊)に丸山熊雄訳で。
いや驚きました。“油”をひらがなにはしてあるが、博士の説を取り入れた人があったのだ。多分、この丸山熊雄氏も辰野博士の教え子のお一人だったんでしょうね。調べて見ると、丁度、辰野博士が東大の教授をされてる頃に、フランス文学科に籍を置いておられたようだ。しかし、この丸山氏も後に刊行されたものには「脂肪の塊」と訳しておられる。
■出石アカル(いずし・あかる)
一九四三年兵庫県生まれ。「風媒花」「火曜日」同人。兵庫県現代詩協会会員。詩集「コーヒーカップの耳」(編集工房ノア刊)にて、二〇〇二年度第三十一回ブルーメール賞文学部門受賞。