3月号

連載 教えて 多田先生! 素粒子物理学者の宇宙物理学教室|〜第21回〜
インフレイション
自然界で最も大きな存在が宇宙、そして最も小さな存在が素粒子と
考えられている。素粒子を研究することで、宇宙のはじまり、人間の
存在を解明する― 日本の誇りをかけて、その最前線で日々研究に打ち込む素粒子物理学者・多田将先生。この連載で謎に包まれた宇宙について多田先生に教えていただきます。さあ、授業のはじまりです!
第18回から第20回まで、ビッグバン宇宙論の問題点についてお話ししました。問題があるならそれは間違っているのかというと、科学の世界ではそうはなりません。大筋では正しいことがはっきりしているわけですから、問題が解決できるよう、「修正」を行うのが筋です。今回は、その「修正」についてお話ししましょう。
現在日本では、長すぎるデフレイションの時期を経て、インフレイションの時期に入っています。世界に取り残されたままずっとデフレであったためにその反動は大きく、物価高に辟易している方も、読者のみなさんの中にはおられるかも知れません。でも、世界を見回すと、日本ていどならインフレのうちに入らないと言えるほど、桁違いに高いインフレ率の国もあります。二◯◯八年のジンバブエのインフレ率は、なんと、三五五◯◯◯パーセントだったそうですよ。
ところがっ!
そんなものは問題にならないほどの激しいインフレが起こっていたことがあります。どこで? それはわれわれのこの宇宙全体で、です。そのときは、宇宙の大きさが一◯の三◯乗倍、つまり一◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯倍にも膨張しました。しかもそれが起こった期間は、宇宙が誕生してから◯・◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯一秒後から◯・◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯一秒後までという、ごくわずかな時間の間です。これはジンバブエも驚きのインフレでしょう。第15回で宇宙年表をお見せしましたが、今回もそれを再掲します。これを見ても、宇宙の歴史の中でもほんとうに最初のほうに起こったことがわかります。
このインフレイションをビッグバン宇宙論に組み込むことで、いったいなぜ前回までの問題が解決するのでしょうか。
まず、第18回の「平坦性問題」です。このときはトランポリンの歪みでたとえましたが、インフレイションとは、このトランポリンが急激に引き延ばされてしまうことを意味します。このため、トランポリン(空間)は、強制的に平らになるのです。さらに言うと、平ら、つまり臨界密度ちょうどになった瞬間に、インフレイションは終了します。ですから、インフレイション理論では、宇宙が平坦なのは必然なのです。
次に、第19回の「モノポール問題」です。空間の欠陥によってモノポールが生ずるという話をしました。そしてビッグバン宇宙論から計算すると、宇宙の至る所にモノポールが存在するはずだ、と。しかし、宇宙初期にインフレイションのような大膨張期があったとすると、その宇宙膨張とモノポール密度の計算は単純なビッグバン宇宙論とはずいぶん変わって、現在われわれが観測できる範囲にひとつもなくともよいくらいの量になります。
そして第20回の「地平線問題」です。このときは、櫂で風呂をかき混ぜる話でたとえました。宇宙が広すぎて、櫂の速度(光の速度)では均一にかき混ぜられない、ということでした。しかし、最初の宇宙がもっと小さかったなら? その小さい「風呂」なら充分にかき混ぜられて、そうして均一になったあとに、インフレイションによって膨張したら││それなら「インフレイション後」の地平線の向こうまで均一なのもありえる、ということです。
このように、インフレイションによって、ビッグバン理論の問題点が一気に解決できるのです。インフレも悪いことばかりではありません。要するに貨幣価値が下がるわけですから、貯蓄(長所)の価値が下がるだけでなく、借金(短所、問題点)も激減するのです。
では、そもそもインフレイションなどという現象が起こりうるのでしょうか。ここでもう一度宇宙年表をごらんください。
インフレイションがはじまったときに、もうひとつのできごとが書かれているでしょう。そこには、「強い力が生まれる」とあります。力とその誕生については、第16回でお話ししました。そのときお見せした「力の統一と分岐」についての図も再掲します。原初の力が、強い力と、電弱力とに分岐した、その相転移が起きたとき、宇宙空間そのものも相転移を起こして、ここに、「真空のエネルギー」なるものが生じました。そのエネルギーが尽きるまで、インフレイションは続きました。さきほどお話ししたように、その期間はほんとうにごくわずかな時間で、つまりそのエネルギーはごく一瞬で尽きてしまったわけですが、その一瞬で、宇宙を一◯の三◯乗倍にも膨張させてのけたのです。
これも第11回にて、重力と空間の関係を示したアインシュタイン方程式をご紹介しましたが、その中で、「重力は引力ばかりで、そのままだと宇宙は一か所に集まってしまうため、斥力(反発する力)の要素として宇宙項を入れた」というお話しをしました。そのときはあくまでも「宇宙は安定しなければならない」というアインシュタインの信念を基にした純数学的な要素であって、「宇宙項は具体的になにを意味しているのか」という自然科学的な説明がありませんでした。そのため、その後しばらくは宇宙項を無視した状態でこの式が扱われてきました。アインシュタイン自身、これを入れたことを「人生最大の失敗」と言いました。しかしこの「真空のエネルギー」なるものが実在するとなると、それはこの式の中でまさに宇宙項に相当するものとなります。アインシュタインの死後数十年を経て、宇宙項が華麗に復活したのです。アインシュタインも胸熱です!
このインフレイション理論を考え出したのは、日本の物理学者、佐藤勝彦先生です。僕の先輩(京都大学理学研究科物理学専攻)に当たります。そして同大学で助手をされていた一九八一年に、インフレイション理論を発表されました。当初、佐藤先生は、「指数関数的膨張モデル」と名づけられました。「インフレイション理論」という名前は、米国の物理学者アラン=グースの命名です。これらの命名に、日本人的な生真面目さ、米国人のセンスの高さが、それぞれ如実に顕われています。
発表当時、このインフレイション理論は、とても「攻めた」アイディアだと考えられました。しかしその後、どの宇宙物理学者も当然のこととして宇宙論に組み込むようになりました。現在構築されている宇宙モデルには、なくてはならないメカニズムとなっています。
PROFILE
多田 将 (ただ しょう)
1970年、大阪府生まれ。京都大学理学研究科博士課程修了。理学博士。京都大学化学研究所非常勤講師を経て、現在、高エネルギー加速器研究機構・素粒子原子核研究所、准教授。加速器を用いたニュートリノの研究を行う。著書に『すごい実験 高校生にもわかる素粒子物理の最前線』『すごい宇宙講義』『宇宙のはじまり』『ミリタリーテクノロジーの物理学〈核兵器〉』『ニュートリノ もっとも身近で、もっとも謎の物質』(すべてイースト・プレス)がある。