9月号
連載 Vol.5 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
神戸でのビジネス②
アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)が1871年から勤務したモーリヤン・ハイマン商会の主事業は、茶の貿易だ。その頃、茶は日本で一番の輸出品だったが、船に乗せて長い時間をかけて運ぶため、途中で腐敗しないようにもう一度火入れをして茶葉をしっかり乾燥させる再製という工程が必要となっていた。後発だった神戸は当初、そのための設備がなかったので茶葉を一度横浜に送り、そこで再製加工してから輸出するスキームだったが、そのうち再製工場=お茶場ができはじめると、もともと宇治や伊勢、丹波などの茶産地と比較的近いという地理的優位性を発揮。居留地の整備などビジネスのインフラ整備も相まって、神戸港からの茶の輸出量は1869年時点でわずか313トンだったが、1872年には2399トンとたった3年で7倍以上に急増、その5年後の1877年には4407トンと飛躍的に伸びている。
グルームが茶の仕事をするようになったのは、ちょうどそんなタイミングだった。以前勤めていたグラバー商会でも茶は重要な商材だったので、もしかしたらその時にノウハウを得ていたのかもしれないが、茶葉を触ったり噛んだりしただけでその産地を言い当てたという。グルームは番頭の能登弥吉や、茶の加工技術を持つ清国人の麦少彭らに現場を任せつつ貿易業務に勤しみ、商会の主力として働いた。麦は後に関帝廟や中華同文学校の設立に関わり、神戸の華僑社会の発展に尽くした人物だ。
ところで、大阪~神戸間に鉄道が開業したのはちょうど150年前の1874年のことだが、その陰にはグルームに関する逸話がある。1872年、グルームが寓居していた善照寺の境内とグルームの永代借地の一部が、鉄道建設予定地となってしまった。この問題で一時、グルームと当局の間でトラブルとなったとも伝わるが、神戸の発展のためにはやむを得ないと思ったのだろう、最終的には和解した。その結果、グルーム一家は退居を余儀なくされ、ビジネス面の支援者でもあった兵庫の網元、川西善兵衛のとりなしにより1873年、栄町に新居を構える。ちょうど同年に長女の千代、前年に長男の亀次郎が生まれたところなので、結果的に良いタイミングでの転居になったのかもしれない。
新たな家族ができて仕事にも張り合いが出てきたのだろう、グルームは着実に実績を上げていき、1880年頃にはハイマンに次ぐ商会のナンバー2になっている。
森鴎外が「されば港の数多かれどこの横浜にまさるあらめや」と綴るのはもう少し後のことだが、神戸より先に開港した横浜はこの頃、日本一の貿易港として君臨していた。モーリヤン・ハイマン商会もここにオフィスを構え、この頃実質的に経営のトップとなったグルームも1883年前後より横浜に拠点を置き、神戸と行き来しながら主に生糸の輸出を手がけていた。
しかし横浜での事業は順調に進まなかったようだ。諸説あるが、グルームは1890年に横浜を撤退して神戸に戻り、居留地の播磨町34・35番で茶の輸出を再開したが、1893年頃に商会を離れたようだ。