4月号
神戸で始まって 神戸で終る ㊻ 知性から霊性へ
編集部の田中さんから、『知性から霊性へ』シリーズ3回目として、「知性尊重主義の現在から霊性が支配する世に方向転換するためにはどうしたらいいのでしょうか」と問われてしまいました。
正直言って難しいですね。以前にも書いたかと思うのですが、ある時、三島由紀夫さんから次のようなことを言われました。僕の60年代の作品を見て、「実に無礼な作品だ」と。でも絵は無礼であっていい。だが画家は、日常においては礼儀礼節を守るべきだと。
三島さんと会う時、僕が何度か遅刻してしまったことを戒めるために言われた言葉だったのです。少なくとも三島さんは僕よりずっと年長者です。そんな年長者を待たすわけにはいきません。どんな理由があろうと、僕は大変な失礼をしてしまったのです。礼儀礼節は、何も時間を守ることだけではなく、社会生活のあらゆる側面で、人間として最低守らなければならない常識です。それが守れないで何が芸術だと三島さんは言いたいのです。
そのことを三島さんは次のように言いました。「創造(芸術)が縦糸だとすると横糸は礼節である。その二つの糸が交わった交点に霊性が生じる」と。
ここで僕は初めて『霊性』という言葉を耳にしました。手元にある三冊の辞典には出ていません。そこでネットで調べると「霊性とは非常に優れた性質や超人的な力能をもつ不思議な性質」と、まるで超能力的な霊力のような働きのように書かれていますが、そんなものではなさそうな気がします。
われわれの住む世界は、一つではなく二つの世界からできていて、この二つがそのまま一つだというのです。二つの世界の一つは、『感性と知性』の世界で、もう一つは『霊性』の世界です。感性と知性の世界とは、この実在の世界のことです。それに対して、もう一つの霊性的世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や瞑想家の頭の中にだけあるものと決めつけられています。
でも、宗教的な立場から見ると、この霊性的世界ほど実在性をもっているものはないのです。柔らかい言い方をすると、感性や知性の世界など比べものにならないほど、霊性の世界は凄いと言いたい世界なんです。知性や感性の世界にいる大方の人たちはこの世界で満足しています。中には何か物足りない気がしていることも確かですが、どこかで、知性や感性だけで十分通じ合っているか、成立しているので、わざわざ、その存在が不確かである霊性など持ち出さなくても、現状で満足しているので、無視しておいてもいいんじゃないかということになって、別にことさら霊性など必要としなくてもこの世界で十分満足しているじゃないかと、どこかでこの霊性を切り離して考えています。
つまり、この世界は従来通りでうまくいっている。そこに霊性など持ち込むと、かえって、日常一般の経験体系が逆転しかねない。いや、実際に逆になってしまうのです。実が非実になり、真が非真になって、花は紅ではなく、柳は緑ではなくなってしまうのです。普通では如何にも奇怪千万と思われることが、霊性の立場から見ると、そういうことになるのです。
それは、この霊性的世界が一般の感性的、知性的世界へ割り込んでくると、われわれの今までの経験が、みんな否定するからです。霊性的世界というと、何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実はどちらも一つの世界のことで、二つの世界があると考えられるのは、一つの世界の人間に対する現れ方だといってよいのです。
人生の不幸は、霊性的世界と感性的、分別的世界とを二つの別々の世界で相互に軋り合う世界だと考えるところから生まれるのです。人間は元々知性的にできているので、われわれは何かにつけてあれこれ理屈をつけます。そのため物語に白黒つけたがるのです。つまり、分別と差別でできているのです。これがいわゆる合理性というやつです。もう一つの世界が、無分別と無差別の世界です。そして前者を、感性的、知性的世界と呼んで、大方の人たちはこの世界を求め、尊重しており、そしてこの世界こそ最も重要であるかの如く考えているのです。
これは、学校教育全てがこの考えで成り立っています。そしてこの社会もそうです。芸術まで頭で考えて、コチコチに分別しています。こういう世界の人たちの霊性的世界は、この知性的分別世界の背後に隠れて存在しています。
そして、無分別、無差別の世界を霊性の世界といっておきましょう。大半の人たち、特にインテリは、知性的分別に繋がれているので、こういう人たちは何事も“いい”、“わるい”と二分しないと承知しません。こういう人は、霊性的無差別の世界を一遍通ってこないと、分析を主とする知性の差別界の理不尽さが理解できません。無分別、無差別の霊性的境涯は、知性的分別の世界から分離したものではないのです。もし分離しておれば、今日の生活と没交渉になります。
とにかく、霊性は知性を超えたものだから、思惟や認識の対象になり得ません。だから知性の方から霊性に至る道は断絶しているわけです。
鎌倉時代の日本的霊性の覚醒は、知識人から始まらないで、むしろ無智愚鈍なものの魂からであったということです。言葉を変えれば、「アホになる」ことで、無智で無学といわれる人々の霊性への道は割合に直線的ですが、知性の人の場合となると、その知性がなかなかの妨げとなって、彼らの霊性は容易に目覚めないと思います。とにかく霊性的自覚は、分別の否定によって可能ですが、大半の知識人は理屈と分別の世界で生きています。
霊性には実態がないが、自覚することによって存在を得ることはできます。
最後にひとこと。霊性というものは、“徳”というものとイコールです。徳を積めば、知らず知らずのうちに霊性がついてくるものですが、この徳を積むことを霊性と意識しては成立しません。陰徳を積んで、初めて霊性が得られます。要は、与えられた仕事に何も考えないで無中になる。目的や計画や結末や大義名分など考えないで、まあ無中になれということではないでしょうか。
田中さん、ちゃんと書くとこういうことで、かえって難しくなったのではないでしょうか。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。
横尾忠則現代美術館(神戸市灘区)にて
『横尾忠則 ワーイ!★Y字路』展、開催中。
横尾忠則現代美術館
https://ytmoca.jp/