11月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊸前編 陳舜臣
神戸から発信したアジアの歴史…国際人の視座から挑んだ文学
ミステリー作家初の三冠王
神戸を舞台にした長編推理小説「枯草の根」で1961年、江戸川乱歩賞を受賞し、鮮烈な作家デビューを果たした陳舜臣(1924~2015年)。その後、直木賞、日本推理作家協会賞…と立て続けに受賞し、ミステリー作家初の〝三冠王〟に輝いた。神戸が生んだ偉大な作家は〝アジアの懸け橋〟となるべく、文学で壮大なアジアの歴史に迫ろうとしていた。
9年前の2014年。直筆の原稿などの資料を集めた「陳舜臣アジア文藝館」が神戸市中央区に開館した。彼は「なぜ施設に私の名を入れたのだ」と怒ったというが、神戸から琉球、中国などアジアの歴史に肉薄し、書き遺した功績ははかりしれず、彼の名を冠として刻んだ記念館は神戸の誇りである。
舜臣は1924年、神戸市元町に生まれた。
本籍は台湾だが、1973年に中国国籍を取得した後、1990年には日本国籍を取得している。
この変遷からも分かるように、彼のルーツは複雑だが、2003年に刊行された自伝「神戸 わがふるさと」(講談社)の中に、陳家の移住の歴史が、分かりやすく説明されている。
《三つ年上の兄は台湾生まれで、私以下が神戸生まれだから、陳家の本格的移住は大正時代になる。祖父は台湾ではじめて自転車に乗ったといわれるモダンボーイで、一家の移住前から日本に一人で来たり、上海や廈門(アモイ)にも遊んだようだ》
陳家のルーツは台湾にあるが、舜臣の人生は神戸からスタートしたのだ。
《父は一家を率いて神戸でがんばった。母は五十年も神戸にいたのに、日本語がほとんどできなかった。父の庇護もあったし、神戸という同郷人の社会があったからできたのであろう。人数はふえ我々の世代でも七男五女の大家族となった》
神戸で生まれ育った舜臣は、本来ならば〝生粋の神戸人〟として育っていいはずだった。だが、日中戦争の勃発など、時代がそれを許さなかった。ただ、その不幸が逆に、彼が若くして国際人として目覚め、広くアジアに目を向けるきっかけとなったことは間違いないだろう。
神戸から台湾へ
1941年、舜臣は神戸市立第一神港商業学校(後の神戸市立神港高校)を卒業後、大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)に進学。インド語とペルシア語を専攻していた。同大学の一学年下には、後に新聞記者から作家となる司馬遼太郎がいた。
「神戸 わがふるさと」で、当時の彼の環境がこう明かされている。
《私は大阪外語を繰上げ卒業し、母校の研究所の助手をしていた。講師、助教授を経て教授になるコースを、恩師は用意して下さったらしいが、国立の学校だから助教授以上は任官しなければならない。日本人でなくなった私は任官できない》
彼は研究者として大阪外国語大学に残る道を断ち、日本を出ることを決意する。
《私はこの機に故郷の台湾、そして、中国をみておこうと思ったのである》と。
彼は弟とともに台湾へ向かった。そして3年間、台湾で過ごす中で、自由に台湾と中国とを行き来することができない同郷人の姿を目の当たりにする。
1949年、台湾の女性と婚約した彼の友人はその直後に中国・上海へ行くが、台湾と中国との通信が杜絶したため、友人は婚約者との連絡が一切取れなくなってしまう。
舜臣の弟が仲介に動き、ようやく二人は互いの消息を知る。友人は中国から、婚約者は台湾から来日し、面会はかなう。だが、離れ離れの長い年月の間に、二人はそれぞれ別の伴侶を選んでいた…。
二人を引き裂いた絶望的な、この現実に舜臣はこう書き記している。
《二十世紀は慟哭の世紀であったのだ》
中国近代史の始まり―と位置づけ、三年かけて書き上げた原稿用紙三千枚の大作「阿片戦争」、三国志をテーマに挑んだ、吉川英治文学賞受賞作「諸葛孔明」、大和と明の間で苦闘の歴史を辿る琉球王国の興亡を描く「琉球の風」…。
舜臣は常に俯瞰するような高い視座からアジアという広大な地域の歴史を書き著そうとしてきた。〝国際人〟の視点から文学と対峙し続けようとした彼の意志、その思いを文章に込めた情熱は、若き日に知った同郷人の「慟哭」から発していたのではないか。
ネーミングに文句を言ったという「陳舜臣アジア文藝館」。開館の際、彼は「アジアの若者の交流の拠点に」と願いを込めた。「自分の本が次の世代へ役立てば…」。その魂がここに刻み込まれている。
=続く。(戸津井康之)