9月号
早逝の女流作家 久坂葉子はとまらない|vol.2 研究会と「久坂葉子の世界**展」
「久坂葉子研究会」の代表は柏木薫氏といい、三宮で「MAKO」というバーを経営しながら、自らも同人雑誌で小説を書いている人だった。
自宅に届いた「久坂葉子研究」には、「秋に『久坂葉子展』を目論んでいますから、ご期待ください」と書かれた短信が添えられていたので、私は厚かましくも柏木氏に頼み込み、その展示会の手伝いをさせてもらうことにした。
三宮の勤労会館に行くと、準備室に久坂葉子の実家である川崎家から運び込まれた遺品が並べられていた。愛用の万年筆、インク壺、手製のターバン、絵付けした皿、タータンチェックのベストなどで、私は手伝いもそこそこに、展示品に直接触れる機会を得て、半ば放心状態になった。
特にベストは久坂葉子が着用している写真を見ていただけに、手に取ると小柄な彼女の身体が実感されて、私の鼓動は静かに速まった。
そのとき、私も久坂葉子研究会に入会したい旨を伝えたが、柏木氏は「会は風化状態なので」と、受け入れてもらえなかった。実際、定期的な活動は休止状態で、展示会の準備もほとんどが柏木氏と数人の会員だけで行っているようだった。
「久坂葉子の世界**展」と題された展示会は、一九八三年十月十五日から十一月六日まで、今はなきジュンク堂サンパル店の小展示場で開かれた。私は初日から何度か通い、受付の席にも座った。
展示会には久坂葉子のアルバムから写したパネルも多く掲げられ、自由奔放な少女時代、死に惹かれはじめた女学生時代、小説を書き、芥川賞候補になって、若き女流作家として世に出た姿など、生前の姿がリアルに感じられた。
展示会で特に印象に残ったのは、久坂葉子の名刺だった。この名刺は彼女がVIKINGの例会に出たあと作ったもので、エッセイ「久坂葉子の誕生と死亡」にはこう書かれている。
『二次会に、駅の近所でビールを飲んだ。私の隣に庄野潤三氏が腰掛けた。彼は、私に名刺をそっとよこして、手紙を下さいと云った。そして、あなたの名刺をくれませんか、と云った。私は持ってませんとこたえた。しかし、名刺をつくる必要性があるということに気づいて、それは甚だよろこばしい発見であった。(だから翌日、私は、久坂葉子の名刺印刷をたのみに出かけたのだ)』
当時、庄野潤三氏は友人の島尾敏雄氏に誘われて、VIKNGの同人になっていた。芥川賞を受賞する六年前のことで、氏の隠れたエピソードのひとつだろう。
展示会が終わったあと、しばらくして、久坂葉子の遺品を川崎家に返しにいくので、いっしょに来ませんかと柏木氏から誘いがあった。私は喜んで同行し、柏木氏と研究会の会員Y氏とともに住吉山手の川崎家を訪問した。出迎えてくれたのは、久坂葉子の実兄・芳久氏で、日曜日で自宅にもかかわらず、ネクタイにスーツ姿だった。
芳久氏は小さなよく動く目をした禿頭の人で、やせていて頬に深いほうれい線があり、久坂葉子を彷彿させるところはなかったが、気さくに思い出を語ってくれた。
「あのころは家の中で句会をやったり、南画を描いたり、まあ変わった家庭でしたな。親父はエリート中のエリートで、自分より偉いもんはおらんという顔で威張ってた。久坂はピアノの初見も利くし、才能もあるから音楽の道に進んだらどうやと言うたら、ピアノの八十八鍵では物足りんと言うてました。わしとは気が合うて、仲はよかったです。家族で京都へ行ったりしても、わしら二人が先々まわったりしてね。二人でおると、すっと後ろから手を差し込んできて、腕を組んで歩いたりしました。そのときの柔らかい感触は、今でも思い出しまっせ」
芳久氏は笑顔を絶やさなかったが、それは時の効用のなせる技だろう。繊細で父親との葛藤を抱えていた芳久氏を心配し、慰めていたのは久坂葉子だったのだから。
*柏木薫氏は本年三月九日、九十三歳で逝去されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
PROFILE
久坂部 羊 (くさかべ よう)
1955年大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。外科医・麻酔科医として勤務したあと、在外公館の医務官として海外赴任。同人誌「VIKING」での活動を経て、2003年「廃用身」で作家デビュー。2014年小説「悪医」で第三回日本医療小説大賞受賞。近著に「寿命が尽きる2年前」「砂の宮殿」がある。