5月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から84 キャンサークリニックの「紫電改」
前号に放射線治療を選んだと書いた。
わたしの場合は全20回の治療だった。
紹介されたのは西宮市鳴尾にある「明和キャンサークリニック」。お世話になっている明和病院の関連施設である。
ゆったりとした待合室には絵画などの飾り物はなにもないのだが、ショーケースが置かれていた。
中には飛行機の模型が並んでいて、第二次大戦の末期に米軍を大いに悩ませた戦闘機「紫電改」もあった。
なんでここにこんなものが?と思ったのだが、説明書が添えられていた。その一部。
《明和病院の源流は川西航空機株式会社 (現新明和工業)が昭和15年6月に開設した診療所に遡ります。
第二次世界大戦が勃発して間もない頃、海軍に納める軍用機あるいは飛行艇を制作していた川西航空機が従業員の健康管理を目的としたものです。
その後、診療所は鳴尾病院になり(略)、当時の川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、「明るくみんなで力を合わせて再起していこう」という大きな夢を込めて、昭和20年10月1日、明和病院に改称しました。
明和キャンサークリニックは明和病院のがん治療専門部門として、平成26年3月に開院しました。
ここに展示されている飛行機は全て新明和工業に所縁のあるものです。》
知らなかった。明和病院には長くお世話になっているのに、そういうことだったのか、と思った次第。
川西航空機は「紫電改」を製造していた会社だ。 その製造に携わった人をこれまで三人、別々の機会にインタビュー取材したことがある。わたしにとって興味深いものなのだ。
ショーケースの上に『紫電改』(碇義朗著・光人社)という本があった。もちろんわたしは通院の度に手に取った。このクリニックのある「鳴尾」の地名が何度も出て来る。しかし、遅読のわたしは20回の治療の間には読み終えることが出来ず、古本を求めて続きを読んだ。
終わりの方の一部を紹介しよう。戦争末期である。「紫電改」の生産工場、鳴尾製作所が空襲されたときの様子。従業員は徴用工なども含め三万人に達していたという。
《警報が解除されて工場の近くまでもどってきた社員の一人が倒れている清水工場長を発見した。
「あ、清水さんや。工場長がやられとる」
さっそく数人がかりで清水さんを戸板に乗せて上鳴尾の会社の病院に運んだ。》
このあと、生々しい描写が続くのだが、この病院が現在の明和病院というわけだ。
そして「あとがき」から一部。
《この本には、生きている人、亡くなった人のことが半々に出てくる。私は、亡くなった人びとの話を、生きている人の口から聞きながら、ふと、思ったことがある。(略)亡くなった人、戦死した人びとも、もし生きて今日在れば、この人たちと同じように考え、活躍されたことだろうと思い、いまの平和が大きな犠牲の上になり立ったものであることをいたく感じた。》
この「あとがき」が書かれたのは1993年。30年も前だが、今この時代にも考えさせられる言葉だ。
先に「紫電改」の仕事に携わった人を三人取材したことがあると書いた。そのうちのお一人のことは本誌2021年9月号に「百四歳の人」と題して書いている。その一部。
《戦前、西宮市鳴尾にあった川西航空機に勤め、有名な戦闘機「紫電改」の試作係長として従事。昭和17年には姫路製作所に出向し指導にあたる。
ところが、そこで米軍の空襲に遭い、九死に一生を得ておられる。
「昭和20年6月22日のことでした。休憩時間に壁際に座って煙草を吸いよったら一トン爆弾に吹っ飛ばされて、隣に座ってた仲間が死にましたんや。この空襲では、工員74人が死にました」と、強運の人でもある。》
この竹本さんには何度もお会いしたが、すこぶる元気な人で、「長寿のギネス記録、作ろと思てますねん」とおっしゃっていた。残念ながら百四歳でお亡くなりになったが、病気がちのわたしはあやかりたい。
六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。西宮芸術文化協会会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)ほか