5月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊲前編 今東光
今東光
〝毒舌和尚〟への道…神戸での挫折を糧に
奪われた青春
直木賞作家で天台宗大僧正、中尊寺貫主にして参議院議員…。こんな多彩な肩書を持っていた今東光(1898~1977年)。論客として意見を求められる場も多く、テレビや雑誌などでの人生相談をはじめ、メディアにも引っ張りダコ。肩書に縛られず、歯に衣着せぬ説法で、人の悩みを解決したり、本音で世間の常識に斬り込んでいくことから、ついたニックネームは〝毒舌和尚〟だった。
天衣無縫な東光の人生らしく、生まれたときから居場所を定めず全国を転々とした。多感な青春時代を送った場所は神戸だった。彼の波乱の人生は神戸で幕を開けた…と言っていいかもしれない。
1898年、東光は横浜市で生まれた。父が日本郵船の海外航路の貨客船の船長だったため、幼い頃から日本各地の港を転々とし、北海道や大阪など引っ越しを繰り返し、10歳の頃から神戸市東灘区で暮らし始める。
彼と同じく日本郵船で船長として勤めていた父を持つ、後の劇作家、郡虎彦とは神戸時代、自宅が近く、父同士が友人だったことから仲良くなり、郡に影響を受けて文学に目覚める。
早熟だった東光は日本文学だけでなく、漢文も習得し、北原白秋や室生犀星らと文通するなど文学の世界にのめり込んでいくが、その頃、人生を変える〝事件〟が起きる。
旧制関西学院中等部4年の1学期。牧師の娘と交際したことを咎められ、退学処分を受けてしまう。何とか転校先を見つけ、旧制兵庫県立豊岡中学校に通い始めるのだが、ここでも地元の文学を志す少女と交際したことを理由に退校処分となる。4年の2学期のことだった。
行き場を失った東光は上京する。
本人曰く「旧制中学を中退後はすべて独学だった」と振り返るように、誰も真似できない東光ならではの〝独学〟の道を歩み始める。
「盗講」で独学
東光の著書「毒舌 身の上相談」(集英社文庫)の中にこんな一文が綴られている。
相談者は高校3年生の男子。
相談の内容は「真面目な親友が、女性との交際を学校に知られ、退学処分を受けた。卒業後は結婚し、二人で店を経営して暮らす予定だったのに。どうしたらいいでしょうか…」という悩みだ。
この相談に東光は舌鋒鋭くこう答えている。
《オレも中学二年の時、異性との不純交際とか何とかいう理由で退学させられたけど、全然しょげるどころか、もうこれから学校生活というバカなものはやらないですむっていうんで、オレは万々歳だったもんだ》と。
さらに東光の〝毒舌〟の説教は続く。
《そんなことでしょげるとか、放り出されたから一生が滅茶苦茶になるなんて、そんな奴は放り出されんでも初めからダメな野郎でね。同情するに値せんわい…》と叱りつける。
口は悪いが、どんなピンチも自分の力で切り抜けてきた東光らしい愛ある叱咤激励の言葉だ。
実際、東光は退学処分を受けた後、1915年、東京の叔父の家に寄宿し、一時期は画家を志す。二科展で落選し、絵筆を折るが、このとき佐藤春夫や谷崎潤一郎ら後の文豪たちと知り合い、谷崎の〝無給秘書〟を務め、後のノーベル文学賞作家、川端康成と親友となり、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部、千葉大医学部、薬学部の前身)に通い始める。
一高では芥川龍之介らとも仲良くなるが、実は東光は一高の学生ではなかった。だが、東光は芥川らに勧められた中国古典の講義などを熱心に受講する生徒で、教授陣にも可愛がられていたという。東光はこの一高時代の受講活動を「盗講」と呼んでいた。
「毒舌 身の上相談」で解説を執筆する樋口進氏がこんなエピソードを明かしている。
東光にパスポートの申請を頼まれたとき。当時の申請書類には学歴の記入欄があり、「何と書くか」と聞いた際、東光はこう答えた。
《「東京帝国大学としときいな」》
「そんなことはできない」と言うと…。
《たしかにオレは帝大に入学も卒業もしとらんが、川端たちのクラスで本物の帝大生徒以上に勉強したものさ…》
旧制中学を二回も追われ、十代後半から人とは違う破天荒な人生を歩んだ東光はその後、作家として復活。直木賞を受賞し、中退した母校の関学にも度々、呼ばれるようになり、後輩の学生たちの前で講演会を行っている。
退学で「しょげる」どころか、独学で30年以上かけて名誉回復するのだ。
彼の思想や哲学、生きざまが、いかに時代の先を行く早熟過ぎる人生だったかを、後に多くの日本人が知ることになる。
=続く。
(戸津井康之)