3月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉟前編 淀川長治
淀川長治
新開地は僕の映画学校…神戸で生まれた〝映画の申し子〟
テレビの名解説者
現在のように、まだインターネットでの配信やBS、CSなどテレビの衛星放送がない時代。新作映画は劇場のスクリーンで、そして過去の名画は地上波のテレビ放送で見るのが当たり前の時代があった。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」。毎週日曜午後9時から放送されていた人気番組「日曜洋画劇場」(テレ朝系)で映画解説の後、映画評論家、淀川長治(1909~1998年)は、毎回、このお馴染みのフレーズで番組を締めくくった。
1966年から約32年間、亡くなる前日の放送まで、彼は映画の魅力を情感豊かな言葉でお茶の間へ伝え、愛嬌たっぷりの笑顔で「サヨナラ、サヨナラ…」と語りかけた。この独特のあいさつは、いつしか彼の代名詞として語り継がれるようになっていく。
淀川は1909年4月10日、神戸市兵庫区で生まれた。
「彼は映画の申し子だった」。今も彼が、そう称されるのはなぜだろうか?
評伝「映画少年・淀川長治」(荒井魏著、岩波ジュニア新書)の中で、彼のこんな誕生秘話が明かされている。
《長治誕生前日の四月九日夜、長治の母りゅうは、夫の又七とともに兵庫区新開地の映画館で映画(当時の「活動写真」)を見ていた。その最中に、突然産気づいた》
両親ともに無類の映画好きだった。
「映画とか芝居を見るのが好きだったのは、父譲りの血だね」と彼自身、生まれながらにして映画好きを自認し、物心ついた頃から映画漬けの日々を送っていた。
育った環境も、また彼の自宅があった〝立地条件〟も映画に恵まれていた。
「そのころ私が住んでいた神戸の新開地には、キネマ倶楽部、桂座、錦座、菊水館、朝日館など、いくつもの活動写真館が軒を連ねていました」と、自伝「生死半半」(幻冬舎文庫」)の中で彼は綴り、少年時代、自宅近くのこれら新開地の映画館へ連日、通い続けていたという。
新開地は彼が生まれる4年前、1905年から旧湊川を埋め立ててできた造成地で、一大繁華街として発展。当時、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれていた。
そこに、まるで彼の成長に合わせるようにしながら次々と映画館が建てられ、全盛期には約20館ほどにまで増えていたのだ。
後に彼はこう語っている。
「新開地は、僕の映画学校だった」と。
映画漬けの青春時代
淀川は旧制兵庫県立第三神戸中学校に進学するが、ますます映画熱は高まっていく。
当時、「映画館へ行くような生徒は不良だ」と教師たちは生徒が来ていないか映画館へ監視に来ていたが、彼は「堂々と映画館通いを続けていた」と明かす。
「映画には学校の勉強以上のものがある」と淀川は確信していたのだ。
ある日の映画館の帰り道。監視そっちのけで映画に冒頭し、感動のあまり泣いたり笑ったりしていた教師をつかまえて、「先生、よかったでしょう」と淀川が声をかけると、「うん、よかったな」と素直に教師は答えたという。
生徒の立場でありながら、悪びれずに教師にこう答えさせていた淀川はまさに〝映画の申し子〟足る人生を突き進む。
神戸三中卒業後に上京し、日本大学へ入学。だが、足は大学へは向かわず、浅草や目黒の映画館へ通い続けていた。
「映画は人間の鏡、人間の生きた教科書なんです。人間の美徳にしても、悪徳にしても、人間社会の問題にしても、自然に鏡となって映し出されてくる」
彼の持論はさらに続く。
「大学で四年勉強するなら、三年間映画を見た方がずっと勉強になると思った」と。
そう思い立つと彼は大学を中退し、映画雑誌「映画世界」の編集部を訪ねる。
雑誌社の社主に自分が神戸の出身だと告げると、すぐに、「君は、淀川君だろう」と言い当て、淀川自身が驚いたという。淀川は新開地で観た映画について熱意ある評論を書いては「映画世界」へ毎号投書していた熱心な読者だった。
だが、淀川の夢は絶たれる。実家に呼び戻され、神戸・生田筋に父が出資してオープンした西洋美術品店の店員として手伝うことになったのだ。
遂に〝映画の申し子〟の運も尽きてしまうのか…。
たとえ不良と呼ばれようが、大学を中途しようが、母親が映画館で産気づいて生んだ〝映画の申し子〟こんなことであきらめるはずはなかった。
=続く。
(戸津井康之)