5月号
連載エッセイ/喫茶店の書斎から㊱ 『民芸入門』Ⅱ
今村 欣史
書 ・ 六車明峰
タクシー乗り場もない小さな駅、阪神打出。その改札口で彼女は、『民芸入門』を手に、待っていてくださった。初めてお会いするのでそれが目印。鳥取民藝美術館の尾崎麻理子さんである。メールで交流させて頂いていたのだが、想像していた通り知性を感じさせる女性だった。
「芦屋ブーケの里」は駅から車で五分もかからない。上履きに替えて宮崎翁の部屋へ。「きれいなところですね」と彼女。
翁は絣のスカーフを首に、ベッドの縁に腰かけ書籍を手に待っておられた。
『民芸入門』(吉田璋也・保育社)の成り立ちについての取材である。
「どうぞなんでもお聞きください」と翁。
初対面の尾崎さんは少々緊張気味に、
「吉田璋也にお会いになられたことは?」
「保育社の編集長と民芸の本を書いてもらうために鳥取へ行き、お会いしました。ぼく、その編集長と仲が良かったんですよ。能力のあるいい人でした。保育社は良い本を次々に出していました。ぼくも『岬・文学と旅情』『山陰・歴史と文学の旅』など何冊かを出しています」
そういえば『やきものの旅』というのもあって、改訂版も出ており、さらに電子書籍にもなっている。しかし電子化されるときには何の連絡もなかったとのこと。すでに鬼籍に入っていると思われたのだろう。
「それで、『次にどんな本を出そうか?』とぼくに相談があって、『それなら鳥取に民芸館を創設した吉田璋也という人がいるから民芸の本を』と提言したんです。民芸運動の父と呼ばれた柳宗悦の一番の弟子といってもいいでしょう。柳と吉田さんの二人がいなければ日本に民芸運動は定着せず、単に骨董だけしか残らなかったでしょうね」
民芸が好きだった翁は、それまでにも山陰へ行くとその民芸館に立ち寄るのを常にしておられたのだ。
「吉田の印象はどんなでしたか?」
「お金持ち特有のおおらかさがありましたねえ。別荘でなべ料理をご馳走になったのですが、具材を素手で掴んでなべにぶち込むような豪快な人でもありました。ただあの人は医師というお仕事を持っておられましたからお忙しくて、それほど多くはお会いしていません」
ところで『民芸入門』だが、よく売れたのだ。何度も改訂版が出ている。英語版まで出ている。そこで翁の口から思わぬ言葉が。
「この本を出すについての段取りや編集などはほとんどぼくがしました。そして印税のことに話が進んだ時のことですが、吉田さんがおっしゃるんです。『宮崎君、きみがもらっときなさい』と。さすがお金持ちですねえ。そばにいた編集長にも『わかったな』と。だけどその後、吉田さんがお亡くなりになって、その話はうやむやになってしまいました。ぼくも『実はあの印税はわたしが戴くことになってました』なんて言っても行けないしね(笑)」
とんだエピソードが出てきたものだ。
余談だが、翁は最近耳が遠くなっておられる。97歳ですからねえ。尾崎さんの質問の声が届かないようで、耳に手を当て何度も聞き直したり。しかも翁の話は脇道へ入ってゆくことがしばしば。それが翁の親心でもあり、聞く者は勉強にもなるのだが。
やがて翁にお疲れの様子が見え、気づくと二時間が経っていた。尾崎さんも貴重な話を書き留められたようだし、わたしたちは腰を上げることにした。ところが翁は、「あ、それから…」とまた思い出したことを話される。それも尾崎さんが驚嘆するような遠い昔の民芸館に関する情報なのだった。それらのことは彼女の財産になり、また鳥取民藝美術館の歴史の一端に書き加えられることにもなるのだろう。
「喫茶・輪」のブログから思わぬ展開があって、わたしもまた刺激的な一日を過ごさせていただいたのだった。
終わりに、保育社から昭和44年に出た宮崎翁の『山陰・歴史と文学の旅』から一節。
《鳥取市 黒田稲皐や土方稲嶺というすぐれた画人や蘭学者稲村三伯を生んだ学芸の伝統は、吉田璋也医博(カラーブックス「民芸入門」の著者)の収集を展示した鳥取民藝美術館の“生きた美のやかた”に結晶している。併設地蔵堂の由来記もこよなく美しい。「このお堂のお地蔵さんは、お祀りする人のなくなった無縁の童子、童女のお墓なのです。…他の地蔵とは違って、この新鮮で、素朴で、原始的で、美しく可愛いお地蔵さんが、風雨や、放棄から消えるのを惜しんで、鳥取市内の11のお寺の墓地からお連れ申してこのお堂にお守りすることになったのです。」》
お若いころからこのような視線をお持ちの宮崎修二朗という人を、わたしはやはり敬愛してやまない。
※鳥取民藝美術館創設70周年記念展「吉田璋也著『民芸入門』五十年」
前期展示 日本の古民藝 4月13日(土)~9月8日(日)。
後期展示 諸国の民藝 9月14日(土)~2020年4月12日(日)。
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会計。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)ほか。