1月号
激動の柴田家130年
お洒落・ファッション, 紳士服, 経済人
老舗が後世に伝えたいこと 〜神戸の地で引き継がれてきた“ものづくり”の精神〜
ハンドメイド注文紳士服「柴田音吉洋服店」
株式会社柴田音吉商店 五代目社長 三代・柴田音吉さん
明治初期、居留地のイギリス人テーラーから近代洋服を学んだ初代が創業して、今年で130年を迎えるハンドメイド紳士服店「柴田音吉洋服店」。職人によるハンドメイドという、プレステージ商品を扱う商店は、変わる時代の中でどう変化してきたのか。これまで五代にわたり、それぞれの事業を手がけてきた経営者たちや、神戸という土壌、継続の理由についてなど、柴田音吉社長にお話をうかがった。
主要産業は25年周期で浮き沈みする
創業130年、誠におめでとうございます。
月刊神戸っ子が初めて柴田音吉洋服店を取材させていただいたのは、昭和50年頃が最初でした。それ以降、NHKの「歴史誕生」を皮切りに、多くのテレビ・新聞・雑誌の取材を受け、柴田さんの名前は以前に増して全国に広まりました。
2006年の神戸空港開港時には、全日空の機内放送番組で「神戸開港」が特集され、開港とともに広まった洋風文化の中で、洋菓子のフロインドリーブ、そして近代洋服の柴田音吉洋服店がクローズアップされました。そんな神戸の顔として出演された、柴田音吉社長は、インタビューの中で、西洋の職人に弟子入りした初代から、神戸という土地で今に伝わる伝統について、お話しされましたね。
さて、柴田社長は以前まで、四代目柴田音吉と名乗られていたのですが、最近では、五代目を名乗っています。それはなぜでしょうか。
それは、この柴田音吉洋服店(以下・洋服店)が130年間続いてきた中で、テーラーとして洋服作りをしてきただけでなく、事業を存続させることに功績のあった、もう一人の経営者がいたことを忘れないようにするためです。
平成16年に母が亡くなり、鵯越にある当家の墓に参った際、墓を開けますと、中には私の祖父と祖母、3歳で亡くなった私の兄の、三つの遺骨しかなかったんです。そこで父に、「初代はどこに眠っているのですか」と聞いたところ、「墓は別にある。うちは分家だから」と聞かされ、大変ショックを受けました。
では本家とはどこかと尋ねますと、戦前、林業で大きな財を成した柴田友蔵の事業を受け継いだ長男一族のことでした。友蔵は洋服店の二代目社長でありながら、林業も手がけていました。その間、家業のテーラーを継承したのは畠山忠(三代目社長)で、長女の婿である忠が洋服店をしっかり守って発展させたわけです。つまり「老舗を継続するためには、家業・本業だけでは難しい。本業は堅実に続けながら、時代に合った事業をサイドで手がけることが必要」ということ。事業は25年周期で浮き沈みするといわれますので、それぞれの時代に沿ったビジネスを手がけるのが望ましいということを教えてくれた、経営者がいたのです。
英国調スーツ普及の立役者・初代は天才肌の職人だった
初代・柴田音吉さんは、日本で最初のテーラーとして、さまざまな逸話の残る「伝説のテーラー」といわれていますね。
初代は、ペリーが浦賀に来航した嘉永6(1853)年、初代音吉は近江商人の家に生まれ、15歳で、神戸の庄屋・柴屋金左衛門の家に婿養子に来ました。『兵庫県人物列伝』(明治43年刊)によると、10歳のころから、京都で裁縫の勉強を始めたとあります。この当時でしたら和服の裁縫でしょうね。明治維新を迎え、これからは洋服の時代だと、神戸の居留地で近代洋服のテーラーを開いていたイギリス人・カペルの一番弟子となりました。19歳のころです。
明治16(1883)年、日本人初のテーラーとして独立し、元町3丁目に「柴田音吉洋服店」を開業。極上の生地を使い、ていねいな仕立てでゆったりとした着ごこちの良さ、という柴田の洋服の特長は、初代から受け継がれているものです。初代兵庫県知事・伊藤博文公にかわいがられ、恐らく博文公の推薦で、明治天皇陛下のお召し服を作らせていただいたこともあります。大変腕のたつ職人だった初代は、「陛下のお身体には触れられないので、遠くから目測でサイズをお測りした」という有名なエピソードがありますが、恐らくこれは、陛下のお召し服を侍従から借りて参考にしたのではないかと思いますね、いくら天才でもお腹周りなどの細かいサイズは見ただけではわかりませんからね。
柴屋金左衛門の「金」の文字を分解した「人ニハ 一」を「人には辛抱(芯棒)が一番」と読んだのは、初代の教えです。
明治5年の「太政官布告」によって、礼服には洋服を着用するよう定められ、近代洋服がいっきに定着しましたが、博文公とともに、初代はその立役者となった人物でもあると言い伝えられていますね。
次に、二代目は、テーラー以外の事業で成功し、財を成した方だったとか?
初代の妻・かねは、神戸凮月堂の吉川家から嫁いで来られた方でした。同じ神戸の、ハンドメイドによるものづくりの家系同士で結ばれたのです。
その夫妻の間に生まれた一人娘のもとへ、婿養子に来たのが、二代目社長・柴田友蔵なんです。
彼は淡路島出身で『兵庫県人物列伝』では、「マッチ商では右に出る者はいなかった。明治23(1890)年に柴田家に来たのち、初代のもとでテーラー業を勉強する傍ら、北海道開拓に着手し、その後は神戸付近と北海道など10ヵ所に製材所を持ち、北海林業(株)を設立した」と書かれています。これは初代のバックアップあってのことでしょうけれど、結果的に、柴田家が大きく繁栄したようです。
けれども、大きな財をもたらした製材所も、第二次大戦の戦禍を被り、残念ながら、継続することができなかったようです。
三代目は、英語やフランス語が堪能で、神戸で初めてヨットでクルージングをした人でもある、大変先進的でおしゃれな方だったとおうかがいしています。
二代目・友蔵は、長男・享一に林業をまかせ、彼は神戸の大倉山公園に名が残る長岡の大倉喜八郎の孫娘と結婚しました。大倉家とは、林業と絹織物でつながりがあったようです。洋服店は、長女・千代の婿・忠が継ぎました。忠は、源頼朝の重臣・畠山重忠の末裔で、当時の東京外大を卒業し、外国語が堪能で、政府の第一号留学生としてフランスのリヨンで毛織物の勉強にはげんだ“服地のエキスパート”でした。
友蔵は、オーナーとして洋服店の経営にたずさわり、テーラーの実務をまかせられる支配人として、毛織物の知識があってヨーロッパに人脈を持つ忠の才能を見込んで、婿養子にしたわけです。忠はその後、フランスの毛織物商社・ドーメル社(パリ・ロンドン)と関係を結び、日本での輸入販売元となりました。この事業が、のちに設立される柴田商事㈱の主力事業となります。忠は「二代目柴田音吉」を襲名しました。
先祖が見守る老舗
忠さんが外国人とともにパーティーをしているお写真が残っていますが、海辺にはヨットが停泊し、まるでドラマ『華麗なる一族』の一幕のようですね。忠さんも国際的な方ですが、神戸は明治の開港都市で新しい文化が入る玄関口だったこともあり、そういう、ハイカラで「初物食い」を好む傾向があるのでしょうか?
私の父・四代目・高明は戦後、ヨーロッパからのプレタ、洋品雑貨の輸入を始めました。この事業は、業界では先駆者だったようですから、「初物食い」の土壌は確かにあるかもしれませんね(笑)。
父は、自身の父である忠のことを非常に尊敬していました。私の母も、毎日のように「立派なお祖父さんだった」と私に言い聞かせていました。そのため、私は先祖を敬い、大切にすることを身に染みて感じるようになりました。
祖父が49歳の若さで他界したため、父は神戸大学在学中に家業を継ぎました。第二次大戦では日本中が焼け野原になりましたが、幸い父は無事で、店舗は焼けたものの裏にあった倉庫ビルだけが奇跡的に難を逃れ、カッターなどの重要な職人たちも戻ってきてくれました。また、主要な取引先であったドーメル社は戦時中、スコットランドに商品を置いていたので、終戦後、生地の供給がストップすることはなく、幸運にも昭和22年には商売を再開することができたのです。
戦後、父はロータリークラブで知り合った海外のメーカーと取り引きを始めました。その当時、まだ日本の繊維商社では扱っていなかった、ドイツの「ペロ」、「ピルツ」、イギリスの「アクァスキュータム」といったヨーロッパの一流メーカーから、ネクタイ、ハンカチ、シャツ地、レインコートなど紳士洋品の輸入販売をスタートしたのです。時代も経済成長期でしたし、日本人のブランド志向の高まりもあって、この時期、柴田グループは大きく成長しました。昭和43年には、ドーメル社とともに業界初の合弁会社・柴田ブリティッシュテキスタイル(株)を創設。高明は、祖父の友蔵に似ていたのか、財務関係が非常に強く、私の叔父・禎三(高明の弟)らとともに、グループ会社は7社に、従業員150人の企業に成長させました。
柴田グループとの合弁会社によって、日本での販売ルートが拡大し、ドーメル社はこの時期、世界最大の毛織物商社に成長したとのことですね。
老舗存続のために、人間関係を大切に
そして、「三代・柴田音吉」を襲名した五代目社長・啓嗣さんは、甲南大学在学中はテニスの名プレーヤーとして活躍され、また、ゴルフもシングルプレーヤーでいらっしゃいますね。五代目社長は、三代目の忠さんと似て、生まれながらにファッションにも興味があったとか。
大学在学中は、テニスばかりしていてほとんど授業に出られませんでした(笑)。けれどもそれが良かったと思うんです。テニスによって良い友達がたくさんでき、中でも三井物産の取締役だった岡橋輝和君は甲南中学時代からの友達で、社長になってからもさまざまなアドバイスをもらっています。ゴルフは、廣 野と六甲国際ゴルフクラブでプレーしています。
商売を継続するにあたって、人間関係は本当に大切です。いろいろな人脈は、必ずプラスになってくれます。私も太陽工業の能村光太郎さんが当時世話人をしていた若手経営者の勉強会「ピアー会」に入れていただき、大阪・東京の優秀な中小企業経営者と知り合うことができました。特にメルボ紳士服の清水貞行さんは、私がイタリアに進出するきっかけを作ってくださった恩人です。神戸凮月堂の下村光治さん(故人)のお誘いで入会させていただいた神戸JC、また塩屋土地の井植貞雄さんのお声掛けで入らせていただいた神戸ロータリークラブでもよき先輩・友人が多数できました。
私はもともと、服地の商品企画やデザインに興味がありました。金門(株)を設立し、ミラノにバイング・オフィスを設けて、メーカーのデザイナーやスタイリストにデザインの指示を出し、主に紳士服地のプロデュースに関わっていました。ミラノやパリ、ロンドンのラグジュアリー・ファッション界の人々と接することができましたし、若い頃から蓄積してきた、毛織物などの知識が発揮でき、このときはいちばん楽しかった時期です。
長年の努力が報われ、英国エリザベス女王ご用達の「JJミニス」ブランドを持つ当時世界最大のテキスタイルグループと全面提携ができ、パリの「ジバンシイ」、ミラノの「クリッツィア」などの有名ブランドと、服地のライセンス契約を結ぶことができたのもこの頃でした。
お地蔵様が守ってくれた「二度の奇跡」
しかし時代は変わり、バブル崩壊と長引く不景気、そして阪神・淡路大震災が襲いましたね。
平成2年、柴田グループの最盛期に社長に就任した私でしたが、すぐにバブル崩壊によって景気後退の時代が訪れました。デパート、アパレル等もどんどん倒産していき、まるで火薬庫の中で商売しているようでした。
そして、平成7(1996)年、阪神・淡路大震災が起きました。神戸市内のビルは2ヵ所が全壊しましたが、元町にあった倉庫は無事でした。倉庫の中には、数億円に及ぶ新入荷商品と多額の在庫商品があって、これが燃えていたら取り返しのつかない損失を被ったはずです。この倉庫は、第二次大戦の戦火も逃れた建物で、二度目の奇跡が起きたといえます。倉庫の前におられた小さなお地蔵様が守ってくださったのだと思い、大龍寺におられるご本尊から、ご分身に魂を入れていただいて、洋服店のあるビルの屋上にお祀りしています。
型紙や、伊藤博文公のお洋服、昔の貴重な資料などは、傾いたビルから社員たちが命がけで取り出してくれました。もとは2万点ほどあったものが、数千しか取り出せませんでしたが、テーラーの命でもある、お客様の体型に合わせた型紙が残ったのは幸運でした。
震災後は、柴田が無事だと知ったお客様が、主に九州の方がどっと注文をくださったので、大いに助けていただきました。我が社はお客様のうち8割が東京や九州など神戸以外の方でしたから、そういった面でも幸いで、おかげさまで震災後に従業員をリストラなどせずに済んだのです。
しかし、世の中の不況はとどまりませんでした。グループの販売拠点であった東京八丁堀のビル、大阪高麗橋にあったビルを手放し、帝国ホテルの店舗も撤退、輸入商社や不動産など7社あった柴田グループは3社に縮小せざるを得ませんでした。取引先やスタッフには、大変なご迷惑をおかけしました。
時代に合った商売のスタイルに変化
父(四代目)が大きくした事業をいっきに縮小したのですから、父親には大変怒られるだろうと思いました。しかし、父と共に、高野山にある初代のお墓に参った際、父は初代のお墓の向かいにある豊臣秀吉公のお墓を見て「城と内堀だけ残ったらいい、外堀は無くなってもいい」と言い、さらに「会社は大きくするのは容易だが、小さくするのは困難」と、反対に慰めてくれました。自分の好きな仕事をさせてくれた父親には感謝しています。
私の代になって、店舗のスタイルも大きく変えました。震災後、1997(平成9)年に元町4丁目のビルを建て替えましたが、2階をサロン風にし、ご来店は予約制としました。これまでのように1階に店舗をかまえ、店員を何人も置いてお客様の応対をするという商売のしかたはやめ、丁寧にお客様とお話し合いをしながら、オーダーをいただく「ビスポーク・スタイル」という、テーラーの原点のスタイルに戻ったわけです。店舗の形態は変わりましたが、縫製技術はもちろん最高水準をキープしています。工場長である稲沢治徳は「現代の名工」「神戸マイスター」に選ばれ、平成20年には「黄綬褒章」を受章した技術者ですし、その下に腕の良いスタッフがいます。
柴田のジャケット縫製工程は、仮縫いのあと、28時間かけて一人の職人が縫う、というのが基本です。28時間のうち、26時間はハンドメイド(手縫い)、ミシンを使うのは2時間だけ、約6万針。これが当店のスタンダードです。
商売は時代に合った大きさで、時代に合ったやり方でしていかなくてはいけません。景気の良い時代のような豪華な店づくりをしていたのでは、どうしても経費がかかり、結果、洋服が高くなったり、服地や縫製の質を落として価格を抑えるといったことにつながりがちです。生地を直輸入するなどして価格をできるだけ抑えるなど企業努力も行っておりますので、このスタイルは概ね、お客様にお喜びいただいています。
2010年には、史上もっとも軽いとされる「ライト-フィット」テーラードジャケットを開発されました。これが大好評だそうですね。
ええ、これは実際に着てみると本当に軽く、まず肩がこらない。重たいジャケットはビジネスマンのストレスの原因ですからね。
史上最軽量ジャケットは、長年の常連のお客様から「軽くておしゃれな冬のジャケットがほしい」と常々言われていたのがきっかけで、当店の創業125周年を機に開発に着手しました。長い期間をかけて技術者とともに試行錯誤を繰り返し、昨年、商標登録に続き、特許庁より実用新案特許を受理しました。
「スモール・イズ・ビューティフル」を守り続けて
130年にわたって、商売が続いた理由は何だとお考えでいらっしゃいますか。
一つには、良いお客様に恵まれたことです。
二つには、良い技術者・スタッフがいてくれたことです。
三つには、初代が始めたテーラーという手作りの仕事以外は、あまり手がけなかったこと。この130年間、無借金で経営してこられたのは、「Small is Beautiful」という、先代からの教えを守ってきたからでしょう。京都では「老舗と屏風は拡げると倒れる」といわれているそうですからね。私は、先祖のDNAというのは、努力すれば良いDNAが出てくるのではないかと考えています。
父はよく「利潤より芸術性を追求しなさい。儲けは他の仕事で儲けなさい」と言っていました。注文紳士服作りというのは、注文を受けてから一着2~3ヶ月と、大変な手間がかかります。しかし利潤を追求するあまり、その手間を惜しんで仕事が雑になってしまっては元も子もありません。二代目の林業、三代目の毛織物輸入、四代目の輸入洋品販売、私の代の輸入服地プロデュースと、それぞれの時代でサイドで事業しながら、本業を大切に守ってきました。
「歴史、伝統を重んじながら、企業は存続することが最優先」というのも家訓の一つです。「輸入という平和産業に携わっているので、いかなる戦争、大恐慌、大地震などの事態にも対応できる柔軟さを持たなければならない」というのが先代の教え。不測の事態にも対応できたのは、「柔軟さ」ということが家訓にあったからです。
さて、次世代の柴田音吉洋服店は?2人のご子息は、甲南大学を卒業され経営者向きの頭脳派、おしゃれなスポーツマン系の2つに分かれていて、柴田家のDNAは、お子さんにも脈々と引き継がれているようですね。
私の長男は四代目のDNAを受け継いでいるようで、ボストンの大学でMBAを取得し、今はIT企業で働いています。次男は私に似てスポーツ好き、プロの社交ダンサーをやっています。二人ともがんばっていますが、さてどちらかが家業を継ぐのかどうか…(笑)。
同一の商売を継続させるというのは本当に大変なものです。これまでのお話でもしましたように、柴田は130年間安泰でやってきたわけではまったくありません。私だって、一歩まちがえれば、本日このようにしてお会いできていなかったかもしれませんよ。これはどの老舗企業にもいえることですが。
ピーク時と比べると会社の規模は小さくなりましたが、質の良い商品を提供するという、仕事の“核”は残ったと思っています。それも、変化する時代に柔軟に対応し、「品質の良さ」を守るという柴田の家訓を受け継いできたからだと思います。
月刊神戸っ子と柴田さんとのおつきあいは長いのですが、柴田家五代にわたってのロングインタビューは、今回が初めてでした。戦災・バブル期・震災・不況と、それぞれの時代の激動の中、決して順風満帆とはいかないご商売だったということに驚きましたが、最後は「柔軟であること」「スモール・イズ・ビューティフル」の家訓を守り続けてきたのだという五代目社長の言葉が印象的でした。
柴田音吉(しばた おときち)
株式会社柴田音吉洋服店 五代目社長
1949年神戸生まれ。三代・柴田音吉を襲名、現在63歳。
写真は、元町の洋服店で「ライト-フィット」ジャケットを着用。