11月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の参拾弐~
木下 利玄(きのした りげん) 1886~1925
阪神間モダニズムの時代、神戸あたりには著名な文化人がうじゃうじゃございました。文学界では谷崎潤一郎が有名ですが、白樺派のメンバーの一人も一時期、住吉に住んでいたとか。
その人は木下利玄。東大在学中に佐佐木信綱に師事し門下の逸材!と騒がれ、学習院初等科時代のクラスメートの武者小路実篤らと『白樺』を創刊。白樺派、そして大正時代の歌壇を代表する歌人として文学史にその名を刻みましたが、肺結核に冒され39歳で追憶の人となりにけり…でも口語的表現を独自のリズムで編む作品は現在も親しまれ、試験にもよく出てきます。
そんな利玄が住吉に寓居していたのは大正6年の年の瀬から翌々年の正月明けくらいまで。その間は代表作の歌集『紅玉』の編纂作業に情熱を傾けつつ、ここを拠点に関西一円の名所を訪ねておりました。
ですから当然、有馬にも足を運んでございます。大正7年9月6日に住吉から三田を経て有馬鉄道、後の国鉄有馬線に揺られ、「有馬に近づくと山の斜面に女郎花や萩が咲いて、山らしい好い氣がした」と日記に綴っております。有馬では照子夫人とその妹の寿子ちゃんと3人で10日ほど花の坊で逗留。ぼちぼちとお仕事しながら鼓ヶ滝を散策したり、炭酸泉を飲んだり、温泉神社をお詣りしたりと湯の街でのんびりと。
でもこれがはじめての有馬じゃなかったようです。と申すのも有馬滞在中の9月13日の日記に「この前の六甲越、有馬行の歌を作る」とあるんですよ。で、その歌は歌集『一路』に載っていて、序文に「七月住吉の寓居より朝夕仰げる六甲山を有馬に越ゆ、同行三人」とあるので、もしかしたら夫人姉妹と一緒にハイキングがてら有馬を訪ね、「次はここでお泊まりしようね~♪」と2か月後に再訪したのかも。でも残念ながら、有馬を詠んだ歌は見当たりません。
ところで、利玄は世が世ならお殿様というご身分でした。父は備前足守藩最後の藩主、木下利恭の弟で、利玄も5歳にして子爵家となった木下の家督を継いでいます。この木下家の初代、家定はもともと杉原姓でしたが、妹が嫁いだ木下某という足軽が大出世したことで木下に改姓したとか。この足軽とは木下藤吉郎、つまり有馬大好き豊臣秀吉!で、家定の妹こそ秀吉の正妻、ねねなんですね。そして家定の長男=ねねの甥は
いで湯わく谷のかげ草
まづもえて
有馬山風春や立つらん
と有馬を詠んだ、近世和歌の先駆者と評される木下長嘯子。利玄の天賦の歌才は、ご先祖様譲りなのかもでございますね。













