6月号

近代建築の巨匠、フランク・ロイド・ライトを学ぶ|Chapter 13 遠藤 新 |平尾工務店
平尾工務店がお届けする「オーガニックハウス」の基本的な理念や意匠を編み出した世界的建築家、フランク・ロイド・ライトについて、キーワードごとに綴っていきます。
フランク・ロイド・ライトが日本で手がけた世界的名建築、帝国ホテルのプロジェクトの「はじまり」には前回ご紹介した林愛作が不可欠でしたが、「おわり」にも欠かせない日本人がいました。
その人の名は遠藤新(あらた)。1889年福島県相馬郡福田村(現在の新地町)に生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)に進学し建築を学び、雑誌を通じてライトを知ってその考え方に感銘を受けます。さらに授業の一環で帝国ホテルへ見学に行った際に熱心に質問、支配人の林愛作の知遇を得て、ホテル建築を卒業研究のテーマとしました。
1917年に卒業すると明治神宮造営局で勤務するも、その2年後に帝国ホテル建設の指揮のため来日したライトと感動の面会を果たし、彼の意図を読み取り図面に落とし込む作業に没頭。するとその働きぶりが認められ、ライトに同行し渡米、タリアセンへ。ここでたっぷりとライトの薫陶を受けつつ、時に日本の文化や武士道について語り聴かせるように。そしてライトに忠臣蔵四十七士にちなみ「四十八番目の侍」、あるいは「わが息子」とまでよばれるほどの信頼を得ます。
日本に戻ってからは再来日したライトの片腕として帝国ホテルの現場で奮闘。予算や工期の超過で林が支配人を退くとライトも帰国しますが、その後は遠藤が実務を取り仕切り竣工させました。このほか旧山邑家住宅(芦屋市)や自由学院明日館(東京都)もライトの仕事を遠藤が受け継いで仕上げています。
その後犬養毅邸ほか数々の建物を手がけ、林が帝国ホテル辞職後に計画した甲子園ホテル(西宮市)や、笹屋ホテル(長野県)、目白ヶ丘教会(東京都)、久保講堂(栃木県)などが現在も活用されています。
敗戦後、心臓を患い満州から帰国した遠藤を援助してほしいと、ライトからGHQのマッカーサーに手紙と小切手が届けられたそうです。日米の不幸な戦争をものともせず、子弟は深い絆で結ばれていたのですね。

旧甲子園ホテル(現武庫川女子大学甲子園会館)(イメージ)
FRANK LLOYD WRIGHT
フランク・ロイド・ライト
1867年にアメリカで生まれたフランク・ロイド・ライトは、91歳で亡くなるまでの約70年間、精力的に数々の建築を手がけてきました。日本における彼の作品としては、帝国ホテルやヨドコウ迎賓館、自由学園明日館が有名です。彼が設計した住宅のすばらしさは、建築後100年経っても人が住み続けていることからわかります。
これは、彼が生涯をかけて唱え続けてきた「有機的建築」が、長年を経ても色褪せないことの証明でしょう。フランク・ロイド・ライトが提唱する「有機的建築」は、無機質になりがちな現代において、より人間的な豊かさを提供してくれる建築思想なのです。












