7月号
連載 Vol.3 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
運命の出逢い
アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)は明治元年(1868)頃、神戸の宇治川河口の弁天浜に上陸した。開港にあたって、幕府は日本人と外国人の接触によるトラブルを避けるため居留地を設け、欧米人の生活や活動の場をここに限定したが、神戸ではその整備が遅れ、グルームが来航した頃はまだ一軒の商家もなくて寂しいところだったようだ。
彼はまず、東明村(現在の東灘区御影塚町一帯)の借家に滞在するが、六甲山を眼にしたのはその時が初めてだっただろう。ここの家主の高嶋平介は酒粕の仲介業を営んでいたが、翌々年の明治3年(1870)に焼酎の製造を開始し、これがみりんや「甲南漬」の高嶋酒類食品の創業となっている。
前述の通り神戸では居留地ができていなかったので、生田川と宇治川の間のエリアを雑居地と定め、ここでの外国人の居留を認めた。日本人と外国人がともに暮らすこの雑居地の存在ゆえ、神戸では他都市に比べ住民と西洋人の交流の機会が多く、それがこの街のハイカラ文化に結びついている。しかし、東明村は雑居地ではなかったので、なぜそこにグルームが滞在できたのかは少し謎であるが、一時的な対応として認められたのかもしれない。
そして程なく、グルームは雑居地内の元町通三丁目に佇む無碍光山善照寺へ移り、ここで厄介になる。開基は1585年、ルーツをたどると佐々木源氏に繋がるという由緒ある浄土真宗本願寺派の寺院で、境内にはバナナの木があったという。現在は山本通5丁目へ移転している。
この善照寺へと来たことが、彼の人生の大きな転換点になる。住職の佐々木先住和尚はグルームを温かく迎えたどころか、実業家の素質があり、ロマンチストとリアリスト、文学者と商人を兼ね備え、陰もあるが太陽がいっぱいの男とすっかり惚れ込んでしまい、ビジネス面のみならずプライベート面でもいろいろと世話を焼く。
そして、ホームシック気味だったグルームの気持ちを慮ってか、一人の年頃の女性を紹介する。大阪・玉造の士族の娘で、名は宮崎直。この18歳の日本人女性にグルームは心を奪われ、ほどなく婚礼となった。その日は1868年9月22日と推察されるが、グルームの来日から1年も経っておらず、しかも出逢ってすぐのスピード婚だ。
もちろんグルームが日本語を不自由なく話せる訳ではなく、直も英語を話せる訳がない。しかも法曹界の父に教師の母という英国でも厳格な家庭に生まれ育った新郎と、幕末とは言え権威ある侍の家で躾けられた新婦という取り合わせ。誰がどう見ても前途多難この上ないが、勇気と決心、そして深い愛で結ばれた二人は仲睦まじく、生涯いたわり合い、信じ合っていたという。
新婚生活は善照寺の北隅に構えた新居ではじまった。英国人の妻となった直だが、一生丸髷と和服で過ごしたという。しかし、グルームは鬢付け油の香りが苦手だったようで、ワセリンで代用していたとか。
やがてグルームと直は15人もの子宝に恵まれた。医療事情が良くなかった時代ゆえにうち6人は残念ながら育たなかったが、それでも7男2女の賑やかで幸福なファミリーを築いた。