6月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㊳後編 今東光
今東光
やる気さえあれば道は開ける…最期まで人生を悟ることなかれ
文豪たちとの邂逅
辛い青春時代を過ごした神戸在住時代。旧制中学を2校も退学処分となった今東光だったが、持ち前のバイタリティーで次々と危機を跳ね返していく。東大の授業を「盗講」で独学し、文壇にも属することなく、徒手空拳で作家としての道を切り拓いていく。
東光は神戸から上京後、旧制一高の寮に招き入れられ、後にノーベル文学賞を受賞する川端康成と交流を重ね、芥川龍之介らと共に東大の講義を受けていた。1921年、川端の推薦で東大系の同人誌「新思潮」の同人として参加。1923年にはジャーナリストの菊池寛らと「文藝春秋」創刊にも携わる。
本格的に作家としての活動を始めた東光だったが、東大を卒業していないことを理由に「文藝春秋」の執筆陣からはずされ、立腹。文壇と対立し、袂を分かつ。
作家として軌道に乗りかけたところで、またしても彼は行く手をふさがれ、追い詰められていく。だが、このピンチも乗り越える。
当時の人気俳優、阪東妻三郎と仲良くなり、小説「異人娘と武士」を原作に、1925年、「阪東妻三郎プロダクション」製作で映画化されることに。そして阪東プロの顧問となり、京都へ居を移す。以来、彼の小説は次々と映画化され、東光はしだいに人気作家の道を駆け上っていく。
東光の自著「毒舌 身の上相談」(集英社文庫)で彼はこんな相談を受けている。
「作家になるためにはどんな勉強が必要ですか?」と。
この質問に彼はこう答えている。
《趣味だろうと本職だろうと、何でも文学の道につながっているんだ、やる気さえあればね。だから作家になるための特別の勉強なんてありゃあしねえよ》
さらに、こう続ける。
《でも、みんな文学をやるっていうと、川端康成のように、一高出て東大へ入って、そうしてスッとやれると思っている奴が多い。それが文学をやったということだと思ってるらしいが、川端自身、大学へ行っても授業なんか全然出てない怠け者で、卒業論文も間に合わないくらいひどいもんだった》
東大の講義を必死で聞いていた〝盗講生〟の東光と、講義に出ない東大生の川端。まったく違う学び方をしながらも、二人は後に日本を代表する作家になっていく。
《これが文学の道だなんていうものは存在しないよ》
それこそが東光が辿り着いた答えだった。
ところで、大学時代は逆転したようだが、一高まで優等生だった川端がなぜ、〝不良の代表〟のような東光と親友になったのか?
川端は1歳のときに父、2歳で母を病死で失っている。そして6歳で祖母を、11歳で4歳年上の姉を、15歳で祖父を亡くし天外孤独の身となる。一高の寮生時代、夏休みなどで帰省する故郷を失った川端は東光の実家へ行き、家族のように過ごしていた。東光の両親を川端は実の息子のように慕ったという。
東大生でなかった東光が、「新思潮」の同人になれたのは川端の強い推薦があったからだ。東光を同人に入れることを反対した菊池寛に対し、「それなら自分も同人にはならない」と川端は訴えたという。
友人の死を乗り越えて
東光の流転の人生はまだ終わらない。1927年、仲の良かった芥川が自殺。この辛い経験などを機に、東光は1930年に出家。修行を積み、1955年に比叡山に上山し、高僧の阿闍梨となる。
一方で東光は出家した後も文章を書き続けていた。1956年、「お吟さま」で直木賞を受賞。人気作家として文壇に返り咲くのだ。
1957年、京都で開かれた国際ペン大会京都大会で東光は幅広い人脈を生かし、関西財界人に協力を呼びかけ、大会を成功に導く。当時の日本ペンクラブ会長だった川端を親友の東光が支えたのだ。
「毒舌 身の上相談」で東光は、19歳の若者からこんな質問を受けている。
「和尚の八十年足らずの人生において、最大の悟りとは?」
《当年七十八歳でございますけれども、まだ悟ってはおりません。そう簡単に悟れるものじゃありませんです。ハイ》
誰にも真似できない波乱万丈の人生を東光は駆け抜けた。そこから見つけた答えは乱暴だが、「死ぬまで考えるのが人生だ。簡単に悟るな」という愛ある激励ではなかったか。
東光は、こう答えた翌年、1977年に79歳で亡くなった。
=終わり。次回は稲垣足穂。(戸津井康之)