10月号
有馬温泉史略 第十席|新ルートに新浴場に新名物 有馬の文明開化 明治時代
新ルートに新浴場に新名物 有馬の文明開化 明治時代
前回申し上げた通り江戸時代に隆盛を誇っていた有馬ですが、その末期、京都で新撰組が跋扈する頃は社会混乱の影響で少し客足が鈍り、「有馬獅子」なるちょっぴりメランコリックな小唄が流行っちゃったようで。
で、ほどなく明治維新を迎える訳ですが、その影響はまず交通にみられます。有馬への道は太古より現在の宝塚市あたりのどこかで武庫川を渡るというルートでしたが、鎌倉時代、生瀬に浄橋寺が創建され橋が架けられまして、ま、橋が流され渡船になることもありましたが、それをきっかけに有馬へのメインルートである有馬街道の拠点として生瀬が発展していきます。しかし江戸時代、魚屋道など六甲越えが開削され、幕府はこれを正式な道として認めなかったのですが利用する人が後を絶たず、生瀬の人たちは利権が奪われると六甲越えの通行禁止を大坂奉行所に訴えるなどしばしば紛争が起きていたんですね。
それが明治元年の1868年、一転して六甲越えが認められ、さらに1874年に大阪~神戸に鉄道が開通し住吉駅ができると汽車の威力は絶大で、程なく山道も改修されて住吉から六甲山を横切って有馬へ向かうルートがメインになり生瀬大ピンチ!
ですがやがて大逆転が。1898年に阪鶴鉄道、現在のJR福知山線が延び生瀬に有馬口駅が開業、この駅は現在の生瀬駅で、いまの神戸電鉄有馬口駅とは別物でございます。すると人々は再び生瀬経由へと流れ、逆に住吉経由は廃れちゃった。ちなみに、利用客の多さに目を付け有馬口駅で弁当を売り出し鮎寿司をヒットさせたのが、後に神戸へ移り変わり種駅弁を連発する淡路屋です。
一方、温泉場の方は明治になってもしばらくは相変わらず一の湯二の湯が使われ湯女も活躍していましたが、やはり時代の波にあがなえず1881年、兵庫県により建て替えが計画され、それまでの敷地が狭いので御所坊を移転させて、1883年、その跡地に御雇外国人、ゲルーツ設計の2階建て洋館の新浴場が完成、一等湯、二等湯、三等湯と階級分けされ、2階は貴族などの接待に使われたという記録があります。
ところがこのブランニューな洋風浴場は、由緒ある温泉地に似つかわしくなく人気がなかったとか、欠陥があったとかで短命に終わり、1891年、元の一の湯二の湯のような和風で平屋建ての浴場に建て替えられちゃった。でも構造は昔と異なって一等室2室、通常室2室となり、通常室は投宿先がどこであろうといつでも入れるようになります。つまり、それまでのように宿と時間が指定され、湯女に案内されてという方式は消え、男湯女湯に分けられたので混浴もNGになったみたい。湯女はしばらく一等室への案内をしていたようですが、やがてその役目を終え、宴席の接待は芸妓へ移行していったそうです。
でも、この新浴場も1903年に改築されます。その理由は1899年の六甲山の鳴動。泉温が上がり湯量も増えたので、湧出口があったそれまでの浴槽を泉源として新たに設けた浴室に注ぎ、それでも湯が余るので貸切専用の高等温泉も新設されました。
さらに、明治時代にはもう1つ浴場ができます。それは炭酸泉の浴場。1875年、それまで怖れられていた「毒水」を大阪司薬場の外国人技師が分析したところ炭酸泉であることが判明、一夜にして「霊水」と崇められるように。やがて明治20年頃にはこれを飲める休憩場ができ、そこには茶店やビリヤード台もあったそうです。炭酸泉の浴場はその下に建てられ、その後宿も設けられ新スポットとして人気に。さらに明治30年代には瓶詰め工場ができ炭酸水として輸出もされ、明治40年頃に三津繁松が炭酸せんべいを売り出し、新たな名物がデビューしたのでございます。
西洋の知見や技術で、新しいポテンシャルが引き出された有馬の文明開化。大きな変化はあったけど江戸時代同様の賑わいをみせ、そしてまだまだ進化していきます。そのお話はまた次回、ドントミスイット!