10月号
神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉚後編 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎
文豪が愛した神戸と阪神間モダニズム
小学校へ現れた文豪
引っ越し好きを自認する文豪、谷崎潤一郎は神戸を愛し、79年間の生涯で約40回も引っ越しを繰り返したが、最長となる約7年間を岡本に建てた「倚松庵」で過ごした。
神戸の街並みを描き続けてきた画家、森茂子さん(3年前に死去)を生前に取材した際、谷崎にまつわるこんな興味深い〝秘話〟を教えてくれた。
森さんが小学生の頃、仲良くしていた同級生が谷崎の娘だったという。「細雪」のモデルとなった松子の娘で、後に谷崎の養女となった恵美子さんである。
谷崎は自室で原稿を書いている姿を誰にも見せず、家族でさえ、執筆中、部屋へ入ることはなかったという。
だが、そんな神秘的な作家の姿は、小学生の女の子たちにとっては興味津々だったのだろう。ある日、森さんは恵美子さんと一緒に、谷崎の執筆している姿を見ようと、中庭の中を隠れながら谷崎の部屋へ近づき、覗き見たという。
さらに、こんな逸話も教えてくれた。
お転婆だった恵美子さんが、小学校の先生に叱られ、「父親に来るように伝えなさい」と言われたとき。
谷崎は先生に会うために、和服姿で小学校に現れた。
驚いたのはこの先生だった。谷崎の顔を見たとたん、そわそわと慌てだし、そばにいた森さんに向かって、「君は知っていたのか? どうして谷崎潤一郎が彼女の父親だということを、教えてくれなかったのだ!」と急に怒りだしたという。
「何で私が先生に怒られなければいけないんでしょうかねえ」と、森さんはこのときの光景を思い出しながら笑っていた。
〝大谷崎〟の真意とは?
可愛い娘のために小学校の先生に叱られるという庶民的な一面も見せていた谷崎だが、呼び出した先生をうろたえさせるほど、当時から彼にはただならぬ文豪としての貫禄が漂っていたのだろう。
谷崎は、死後も、ずっと「大(おお)谷崎」という愛称で、多くの文学ファンたちから敬意を込め、呼ばれてきたが、その呼び名は、「偉大な作家だから」という理由ではなかったらしい。
ところが、谷崎と仲が良かった作家の舟橋聖一や、谷崎を礼賛していた三島由紀夫でさえ、「偉大な作家だから」と信じて疑わず、「大谷崎」と呼んでいたという。
その真相について、評論家の小谷野敦が著書「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」の中でこう明かしている。
「どんなに偉大な作家でも、他と区別する必要がない場合は、一般に『大』をつけたりはしない」とし、谷崎が大谷崎と呼ばれるようになったのは、弟の精二も作家だったからで、兄弟を区別するために兄の潤一郎を大谷崎、弟の精二を小谷崎と呼んだもので、だから本来は『だい谷崎』だったのだが、その起源が忘れられ、偉大な作家だから大谷崎だと思われるようになったのである」と説明している。
日本を代表する文学者たちでさえ、愛称がついた理由を忘れ、大谷崎と呼ばれた文豪。それが谷崎だった。
こんな伝説が生まれるところが、谷崎らしい所以だが、その素顔は岡本の倚松庵での暮らしを愛し、神戸の街を和服姿で闊歩していた庶民的な一人の夫であり、また父親であった。
神戸っ子や関西人なら、小説で知る文豪の顔と同時にそんな親しみある愛嬌たっぷりの〝関西人〟としての谷崎の日常の顔も想像することができる。
谷崎を敬愛し、先生と慕う小谷野は、谷崎の評伝をこう締めくくっている。
「谷崎先生は古川丁未子宛の恋文で、自分の仕事は今認められなくとも後世に必ず評価されると書いている。その言や宜し、私もまた同様の心構えで、今後の仕事を続けていきたいと思う」
丁未子とは谷崎の二番目の妻である。若くして天才作家と認められた彼でさえ、妻に愚痴をこぼし、現状に満足することはなかったのだ。
「兄だから大谷崎と呼ばれていた」のに、知らぬ間に世間からも、また、文壇の仲間たちからも大作家という目でしか見てくれなくなったことに、晩年の谷崎は孤独さを感じていたかもしれない。
=終わり。次回は横山光輝。
(戸津井康之)