8月号
浮世絵にみる神戸ゆかりの源平合戦 第20回
中右 瑛
[女人哀史]高倉天皇と小督(こごう)の悲しい恋
清盛は「権勢を強固なものにするには天皇家とのつながりを」と考えて、娘の徳子をまだ結婚適齢期にも達していない十一歳の高倉天皇に入内させることを強引に強行させた。
しかしそのかげで犠牲となり、泣いた女性がいる。高倉天皇と小督との悲しい恋である。
嘉応三年(一一七一)、数え十一歳の高倉天皇が早めて元服したのをきっかけに、清盛は十七歳の娘・徳子を入内させ、女御とさせた。少年高倉天皇の成長が待ちきれぬように清盛は急いだ。いわば、強引な政略結婚だったのである。世の非難や陰口は相当ひどいものだったという。
高倉天皇は十五歳のとき、自分の意にそぐわない女御・徳子より、稀代の美貌で、それに琴の名手だった十九歳の小督に恋をしたのである。小督が高倉天皇の姫を生んだことから清盛の怒りにふれ、小督を目の敵にして亡き者にしようとする清盛の態度を察した小督は、自らどこへともなく身を隠してしまった。
天皇は恋しき小督のことが忘れられず、家臣の源仲国に小督を探索することを命じた。仲国は、小督が嵯峨野あたりに隠れ住んでいることを人づてに聞きつけた。
中秋の名月の夜、仲国が嵯峨野に駒を進めていたとき、はるかに聞こえてくる琴の音。小督が得意としていた名曲「想夫恋」だった。仲国も横笛を吹いて琴の音に合わせた。仲国は横笛の名手、たびたび小督と合奏したことがあった。
突然、琴は止んだ。琴の音の主はやっぱり小督だったのである。
小督は御所に連れ戻されたが清盛の怒りは厳しくなり、ついには剃髪させられ黒染の衣を着せられ洛外に追放された。
嵐山にある小督の墓。いまも悲恋の女人に手向ける花は後を絶たないという。
清盛の横暴に泣かされた女人は限りなく多いのである。
中右瑛(なかう・えい)
抽象画家。浮世絵・夢二エッセイスト。1934年生まれ、神戸市在住。
行動美術展において奨励賞、新人賞、会友賞、行動美術賞受賞。浮世絵内山賞、半どん現代美術賞、兵庫県文化賞、神戸市文化賞など受賞。現在、行動美術協会会員、国際浮世絵学会常任理事。著書多数。