11月号
⊘ 物語が始まる ⊘THE STORY BEGINS – vol.60 俳優・作家・歌手
中江 有里さん
新作の小説や映画に新譜…。これら創作物が、漫然とこの世に生まれることはない。いずれも創作者たちが大切に温め蓄えてきたアイデアや知識を駆使し、紡ぎ出された想像力の結晶だ。「新たな物語が始まる瞬間を見てみたい」。そんな好奇心の赴くままに創作秘話を聞きにゆこう。
第60回は、26年ぶりに映画主演を果たした中江有里が登場。11月7日、徳島県で先行上映、同22日から全国で順次公開される映画『道草キッチン』で久々に〝銀幕のヒロイン〟に挑んだ真意や製作秘話を語った。
文・戸津井 康之
撮影・服部プロセス
これは私のアナザー・ストーリー
〝演じない役作り〟で挑む
想像しなかった出演依頼
「映画現場への復帰は久しぶりだったので戸惑いはありました。主演は体力も精神力も必要なので少し不安だったのですが、無事に耐え抜くことができて本当によかったです」
映画『道草キッチン』の舞台は徳島県吉野川市。徳島県内での約1カ月に及ぶ長期ロケを撮影現場の〝座長〟として乗り切り、肩の荷を下ろしたように、安堵の表情を浮かべた。
「長らく現場から離れていたので不安だったと言いましたが、その間、観る側から客観的に映画と向き合えることができたので、俯瞰して自分の演技をとらえることができました。若いころはどうしても演技に〝我(が)〟が出ていたと思うのですが、広く客観的に自分の演技を見ることができるようになったと思います」
充実した表情から新作への自信が伺えるが、〝不安だった〟と語ることには理由がある。
2年前(2023年)、急病で倒れて病院へ運ばれ、緊急手術を受けて一命をとりとめた。術後1年目に映画出演依頼が届いた。
「正直、出演依頼を受けたときは、半分、何かの冗談じゃないかと疑っていたんですよ」と苦笑しながら明かす。
だが、届いた脚本を読み進めるうちに、次第に魅了され、作品のなかへ引き込まれていったという。
もう一度、映画現場へ戻ろう―。そんな思いを抱かせたのは、映画のなかのヒロインが、まるで〝自分の投影〟のようだったから…。
腎臓の病気を克服しての女優復帰。想像もしていなかった26年ぶりの映画主演が決まった。
「人生、何が起こるか分かりませんね。生きていて本当に良かった」
そう素直に心情を吐露した。
徳島との絆
都会で小さな喫茶店を営む桂木立(中江有里)。家族もなく余生を一人で生きていこうと決めていたが、再開発で店の立ち退きを迫られ、閉店。さらに健康上の問題も起こり、そこへ突然、徳島県吉野川市から相続の通知が届く。立は都会を離れ、徳島へ向かう。
「出演しよう」と関心を引き寄せられた大きな理由は脚本のなかで描かれていた桂木立の人物造形とその生きざまだった。
「私が幼いころ、母は喫茶店を経営していました。かつて〝喫茶店の娘〟だった私にとって、立の人生は、まるで自分のアナザー・ストーリーではないかと思えたんです」
この映画は、徳島県吉野川市市制20周年と、同市に隣接する板野町町制70周年を記念し、企画された。
「実は私自身も徳島県とは深い縁があるんですよ」と、こんな〝秘話〟を教えてくれた。
「大学の卒業論文のテーマで私が取り上げたのが、徳島県出身の作家、北條民雄でした。映画出演が決まる前にも、北條を紹介するテレビ番組の取材で、徳島県を訪れていたので、何か深い因縁を感じました」
劇中、徳島県に移住し懸命に生きるベトナム人たちとの触れ合いのなかで、ベトナム料理を学んだり、自分の生き方を見つめなおす立の姿が繊細に描かれる。
「実際に徳島県にはベトナムからの移住者がとても多いんですよ」と話し、撮影中、徳島へ移住したベトナムの人たちと交流を深め、ベトナム料理の調理法なども教えてもらったという。
映画の現場は女優の原点
1973年、大阪市で生まれ、幼少期を過ごす。上京後、1989年にデビューするや、たちまち人気アイドルとして脚光を浴び、歌手に女優、CMキャラクターなど次々と活動の場を広げていく。
1991年、大林宜彦監督がメガホンを執った映画『ふたり』で映画デビューを飾ると、1998年、大林監督が手掛ける『風の歌が聴きたい』でヒロインに抜擢され、初の映画主演を果たす。
『道草キッチン』で映画主演は26年ぶりと書いたが、2020年、大林監督の遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱―』にも中江は新聞記者役で出演している。
「大林監督は、映画デビューしたときから、私にとって、ずっと〝映画の父〟のような存在でした。まだ、何も分からなかった私に映画の現場で優しく教えてくれた父なんです」
大林監督にとっても、中江は〝映画のミューズ(女神)〟のような存在だった。
映画『ふたり』は大林監督の〝新・尾道三部作〟と呼ばれ、以後、中江は大林作品に欠かせない〝常連女優〟として撮影現場に呼ばれ続けていた。
映画女優として活躍する一方、テレビドラマの女優として転機となった出演作に1995~96年に放送されたNHK連続テレビ小説『はしらんか!』がある。
阪神・淡路大震災で友人を失い、心に傷を負ったまま博多へ転校する高校生役。親友役の菅野美穂と二人で溌溂としたヒロインを演じ、注目を集めた。
『道草キッチン』の白羽弥仁監督は芦屋市出身で現在、神戸市で暮らす。2015年、震災をテーマにしたドラマ『神戸在住』(劇場版も公開)を手掛けており、中江とのタッグが生まれた背景には、阪神・淡路大震災でつながる監督と女優…という縁も感じさせる。
『道草キッチン』の現場では、白羽監督からは、「特に演出や演技指導などはなく、私に任せてくれていました」と言う。白羽監督の絶対的な信頼を受けての出演依頼だった。中江もその期待に応えたかった。
「この作品では、あえて役作りはしない。あえて演じない。そう決めました。その場、そのときの反応を大切にしようと。演じようとしたら力が入ってしまうので、撮影現場ではいつも脱力しているようにしていました」
今までの映画現場では試みたことのない、〝演じない役作り〟に初めて挑んだ。
立ち止まらぬ表現者
女優であり、作家であり、脚本家としての顔も持ち、また、テレビの情報番組などでコメンテーターを務めるなど、多ジャンルで活躍する。
小学生のころから無類の読書好き。年間300冊を読破する俳優界きっての読書家として知られ、テレビの書評番組などにも出演してきた。
「女優、作家、脚本家。一見、違う仕事のように見えますが、私にとってはどれも同じ〝表現のひとつ〟です。表現者として『女優として演じるのか』『作家として書くのか』…。表現したいと思う作品にとって、演じた方がいいのか、文章で書いた方がいいのか、そのテーマにとって最もふさわしい表現法があると思うのです」
この〝表現の在り方〟について、「シンガー・ソングライターと似ているかもしれませんね」と続け、「ミュージシャンが特に意識することなく、歌を作詞・作曲し、自ら歌うことと同じように…」と分かりやすくたとえた。
しばらく、女優業を離れていたから、心配していた映画やドラマファンは多いはず。
そう向けると、「いえいえ、ただ他の仕事が増えていたから女優の仕事が目立たなかっただけ。私は女優という仕事がとても好き。これからも続けたいと思っていますよ」
この声を聞き、ほっと胸をなでおろすファンは少なくないだろう。
熱狂的な阪神タイガースのファンとしても知られる。優勝を決めた今年も、甲子園球場のスタンドでファンとともに勝利の喜びを分かち合う姿が話題を呼んだ。
こんな好奇心旺盛な性格もあり、仕事の幅は広がり続ける。
「今ですか?新作の小説を準備中です」
女優再開のすぐ後には、もう作家の仕事が待っていた。
「小説を書く作業はマラソンのよう。2年後には発表したいと思っています」
休むことなく、フルマラソンのような遠いゴールを目指す執筆作業に立ち向かっていた。
5年前、最愛の母が亡くなった。
「主演女優として復帰した姿を、もう一度母に見せてあげたかったな…」
スクリーンに投影される明日を見据える桂木立の迷いのない澄んだ瞳と、立ち止まることなく常に前へ歩み続ける強い意志を秘めた中江有里の瞳とが重なって見えた。

映画『道草キッチン』より

映画『道草キッチン』より

映画『道草キッチン』より

映画
『道草キッチン』
監督:白羽弥仁
脚本:白羽弥仁 知愛
出演:中江有里
金井浩人 村上穂乃佳 本間淳志 ファム・ティ・フォン・タオ
荒木知佳 芝博文 仁科貴 大塚まさじ 今陽子
エンディング曲:「月の光」作曲:クロード・ドビュッシー
演奏:石井琢磨(イープラス)
製作:ドルチェ・ビータ KYO+
制作・配給:KYO+
配給協力 TORA インターナショナル
© 2025 映画『道草キッチン』製作委員会
2025年12月13日(土)、
第七藝術劇場、元町映画館ほか、全国公開!
オフィシャルサイト

中江 有里(なかえ ゆり)
女優・作家・歌手。1973年大阪府生まれ。法政大学卒。89年芸能界デビュー。NHK朝の連続テレビ小説『走らんか!』ヒロイン、映画『学校』などに出演。NHK BS2『週刊ブックレビュー』で長年司会を務めた。著書に『水の月』(潮出版社)、『愛するということは』(新潮社)、『万葉と沙羅』(文藝春秋)などがある。読書好きで知られ、本にまつわる講演やエッセー、書評を多く手がける。歌手としては、松本俊明氏とのユニット「スピン」を結成、2025年7月に『それぞれの地図』を配信リリース。2025年11月、主演映画『道草キッチン』公開。文化庁文化審議会委員。












