2025年
6月号
(実寸タテ19㎝ × ヨコ8㎝)

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 109 三島由紀夫の記憶力

カテゴリ:文化人

ああ驚いた!
出久根達郎さんの『「当り本」目録』(藤吾堂出版刊)を読んでいて、アッと声が出てしまったのだ。
この本は、元古書店主の出久根さんが「これぞ当り」と推薦する本を紹介する随筆集。
この本のことについてちょっと一言。
一般書店には出ていない。またネットでも入手は難しいと思われる。
というのも、これは大手出版社からの刊行ではなく、私家版風の本なのだ。
この随筆集のシリーズの最初の本『随筆・達人の至言』(発行者・井原修・2023年6月)にこんなことが書かれている。

《古本屋は、昔から霞を食らって生きている。裏町の仙人である。大もうけできる商売ではない。霞の好きな者だけが、この業を志すのである。井原さんは、根っからの業界人ではない。古書が好きで、古書界にあこがれた人だが、まさか、霞を食らう世界とは思わなかったろう。私が、悪いのである。井原さんが古本屋になりたい、と言ってきた時、それはいい、大いにおやんなさい、とけしかけたのだ。(略)昨年、井原さんは廃業宣言をされ、店舗を閉じられた。三十八年続けてこられた家業であった。どんなに無念であったろう。(略)井原さんから連絡が来た。小生の著書を出版させてほしいとの、意外な申し出であった。古書店を閉じた記念にと(略)》
ということで、これは友情出版なのである。最初は一冊だけの予定だったのだろう。しかし、今回の本が八冊目。
出久根さんの友情は続いているのだ。
話を戻す。
声が出たのは、三島由紀夫の記憶力の場面のところ。
三島の担当編集者、吉村千頴の、『終りよりはじまるごとし』という本が紹介されていて、「作家の実像」と題された項の中の出久根さんの文章である。 

《編集者の回顧録は、作家の実像と共に、本が成立するプロセスを逐一語ってくれるから、書物の素性を知りたい愛書家にとって見逃せない。本書も御多聞に洩れない。著者の面前で、三十余枚の原稿を、よどみなく口述する三島に慄然とし、昨夜、必死で全文を暗記したのでは?と疑う。》
とある。
そうか、三島の記憶力は本物だったのか!と思った次第。
それというのも、昔、足立巻一先生の尽力で出た、神戸の詩人、竹中郁の『私のびっくり箱』に載っている話。
偶然銀座の路上で初めて出会った三島が、竹中郁の詩「船乗りの部屋」をその場で暗誦したというのだ。竹中はこう書いている。

《昭和二十三年か二十四年。もう三島は文壇へデビューして相当有名であった。その三島由紀夫を銀座五丁目あたりの路上で洋画家の猪熊弦一郎が紹介してくれた。三島はちょっと姿勢を正して、「船乗りの部屋」を覚えてます、暗誦しましょう。と言って、よどみなく始めから終りまで、ゆるいテンポで朗唱した。「恐れ入りました。作者の私ですらうろ覚えてないのを、あなたの御好意に恥入ります」》
その詩「船乗りの部屋」

円い真鍮の窓から/白い小さな部屋が覗ける。
壁には一つ/汐風に焼けた麦藁帽子。//机のうえに/青い包みの安煙草。/それに小柄な縁に入った若い女の写真。//長い旅路の終りにきて/ここの主人はいま不在だ。

この話、竹中郁の甥の画家、石坂春生さんに、本誌『KOBECCO』主催のある会でお会いした折りに「ご存知ですか?」と訊くと「知らなかった」とおっしゃったことがあった。
実はわたし、この話は少々マユツバではないかと思っていた。いくらなんでも、会ったこともない人の詩を一篇全部暗記していて、偶然出会ったその時に間違いなく朗唱なんてできるものだろうかと。
だが、この出久根さんの本を読んで、やっぱり本当だったんだ!と思ったことだった。
竹中さん、そして三島さん、多少でも疑っていてすみませんでした。お詫び申します。ごめんなさい。

(実寸タテ19㎝ × ヨコ8㎝)

六車明峰(むぐるま・めいほう)

一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。

今村欣史(いまむら・きんじ)

一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。

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