4月号

連載エッセイ/喫茶店の書斎から 107 吉田義男の「徹」
元阪神タイガース監督の吉田義男さんがお亡くなりになったというニュースを聞いて思い出した。
70年ほども昔の話。貸本屋さんが盛んな時代のこと。
まだ小学生だったわたしは、風呂屋の隣の田中のおばちゃんがやっていた貸本屋さんに出入りしていた。あのころは銭湯の近くには必ずといっていいほど貸本屋さんがあったものだ。
わたしは主に手塚治虫などの漫画本を借りていたのだが、野球雑誌を借りたことがあった。そして、こともあろうにブロマイド代わりに写真を切り抜いたのである。近所の巨人ファンの子と一緒に。
彼は巨人選手の、わたしは吉田選手がジャンプしている写真。
わたしはその本を素知らぬ顔をして返した。バレないと思ったのだ。悪い子だった。さらにバカだった。
後で父親からこっぴどく叱られた。
吉田さんについてはもう一つ強烈な思い出がある。
父親に連れて行ってもらった甲子園球場での野球観戦。
牛若丸と呼ばれた華麗な守備とシュアーなバッティングで鳴らした吉田選手。
相手は国鉄(現ヤクルト)スワローズのエース金田正一。生涯勝利数、400というとんでもない記録を持つ大投手だ。
その金田が大の苦手にしていたのが吉田選手だった。
わたしが見ている前で、吉田選手は金田投手の速球をものの見事にセンター前にはじき返した。試合の経過は覚えていないが、そこで金田は、マウンドを自ら降り、スタスタとベンチに下がってしまった。監督がピッチャー交代を告げに出る前に降りてしまったのである。金田天皇と呼ばれた所以である。
『阪神タイガース』(2003年・新潮新書)という本がある。京都市立第二商業野球部時代のことが書かれている。
薪炭業を営んでいた父親が昭和24年に亡くなる。わたしも17歳で米屋を営んでいた父親を亡くす経験をしたが、個人営業の家は大黒柱が亡くなると大変である。家族の人生が変わってしまう。吉田さんの野球人生も大ピンチだった。
だが吉田家は、お兄さんが「店の方は大丈夫だ。オレに任せておけ。義男、おまえは、野球を思い切り頑張るんだぞ」と言って店を継いでくれたという。そのお兄さんも好きで野球をやっていたのだが、諦めたというのだ。
また、《野球部の同級生も「吉田を助けてやろうや」と練習帰りにわたしの家に立ち寄って、店の手伝いをしてくれたりした。青春ドラマそのままの周囲の善意が、どれほど私を支えてくれたかわからない。》とある。
吉田さんのサイン色紙がある。吉田さんから直接に戴いたものではない。
「喫茶・輪」のお客さんには野球関係者も多く、そのうちのどなたかがもらってきてくださったのだろう。
中央上部に「徹」という字が控えめな大きさで書かれていて、「阪神タイガース 吉田義男」と誰でも読める文字で添えられている。
『海を渡った牛若丸』(1994年・ベースボール・マガジン社)にはこんなことが書かれていた。
《プロ野球選手のサインは、読めないような字を書くのがふつうなのに、吉田さんは、きっちりとした書体で書く。そこに彼の律義さを見る。》
そう、うちにある新庄剛志、松井秀喜、中西清起など、野球選手のサインはみな読めない。添えられている背番号で判るようになっているのだ。
そしてそして、この本には驚くことが書かれていた。 竜安寺大珠院住職、花園大学学長(当時)の盛永宗興老師の序文の中に、
《しかし、私は「監督就任した頃に言った“徹”(ひたむきに進む)をいまこそ実行すべきなんだ」とアドバイスした。》
そうか、そうだったのか!だった。
わたしは色紙の「徹」の字を深く考えることなく見ていた。しかし吉田さんにとっては重く深く、そして大切な言葉だったのだ。

(実寸タテ18㎝ × ヨコ7㎝)
■六車明峰(むぐるま・めいほう)
一九五五年香川県生まれ。名筆研究会・編集人。「半どんの会」会員。こうべ芸文会員。神戸新聞明石文化教室講師。
■今村欣史(いまむら・きんじ)
一九四三年兵庫県生まれ。兵庫県現代詩協会会員。「半どんの会」会員。著書に『触媒のうた』―宮崎修二朗翁の文学史秘話―(神戸新聞総合出版センター)、『コーヒーカップの耳』(編集工房ノア)、『完本 コーヒーカップの耳』(朝日新聞出版)、随筆集『湯気の向こうから』(私家版)ほか。