1月号
映画をかんがえる | vol.46 | 井筒 和幸
大衆が望む映画とは何なんだろうか。ボクはいつもそれを探しながら生きてきた。それはきっと社会の真ん中ではなく、周縁に生きる人々やボクを、片時にしろ、この地獄の現実から救ってくれるものだと信じて、そんな映画を探し歩いてきた。
では、戦後の50年代の邦画黄金期に映画会社に入社し、60年代に監督デビューした頃の諸先輩たちは果たしてどんな思いで映画と向き合っていたのだろうか。そんなことをボクが本人たちにインタビューして回るドキュメンタリー番組をNHKで制作することになったのは93年の夏だ。若かりし頃の先輩たちの、映画に人生を賭けたその胸の内を聞き出す機会など滅多になかったし、ボクにとっても有難いことだった。
早速、インタビューしてみたい先輩監督たちをキャスティングした。進行役には岩下志麻さんが盲目の旅芸人を演じた『はなれ瞽女おりん』(77年)などで有名な松竹出身の篠田正浩監督にお願いして、併せて自身のデビュー作の経緯も存分に語ってもらうことにした。戦中生まれの篠田さんを選んだのは、ボクが高校の時に知った「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の呼びかけ人の一人だったからだ。勇ましいだけの戦争映画を撮る監督ではなく、「芸能」とは何かをいつも考えてきた人だったからだ。お会いするなり、篠田さんは「ボクが助監督の時は、他の助監督や監督のエリートぶりが性に合わず、撮影所で一人だけ、アロハシャツにビーチサンダル履きで走り回ってたんだよ」と青年に戻ったような顔で言うので、篠田さんの進行部分はホノルルのビーチをバックに、アロハを着て思うまま語ってもらうことにした。50年代の撮影現場では「助監督たちは背広にネクタイが常識だったから、そんな空気に反抗したんだよ」と。映画は庶民目線で撮ってこそ映画だと言わんばかりで、ビデオを回す前から「芸能」の基本を教えられたのだ。それにしても、ハワイまで行って邦画の戦後史を追うことになるとは思わなかったので、この海外ロケも楽しみだった。
ボクが好きに選んだ諸先輩たちにも撮影所時代の記憶を話しやすい場所を指定してもらい、そこに出向いて収録した。『太陽の墓場』(60年)で大阪の釜ヶ崎で逞しく生きる女とチンピラ男を見つめた松竹の大島渚を始め、『仁義なき戦い』(73年)で二十歳のボクの心を揺さぶった深作欣二、人間を徹底したリアリズムで描破した日活の今村昌平、『悪名』(61年)や『兵隊やくざ』(65年)で娯楽映画のお手本を示してくれた大映の田中徳三、『陸軍残虐物語』(63年)で小学5年のボクに軍隊の恐ろしさを見せつけた佐藤純彌、『狙撃』(68年)で若大将の加山雄三にクールな殺し屋役を演じさせた堀川弘通、『肉弾』(68年)の岡本喜八、松竹には補欠で入社したという山田洋次さんまで名だたる監督たちに会えるだけでも嬉しかった。
篠田さんのデビュー作は『恋の片道切符』(60年)だ。同名のヒット曲で人気のロカビリー歌手を主演に、恋のもつれと芸能界の不条理な裏側を描く青春劇だ。この予告篇を作ったのが助監督の山田洋次さんだ。予告篇だけは番組で紹介した。本篇の方は観ていない。拳銃を撃つ場面もあると聞くので観てみたいのだが。因みに、篠田さんの傑作に『乾いた花』(64年)がある。虚無感が漂う池辺良のヤクザと加賀まりこ扮する賭場に現れる妖しい女との愛の不毛を描くフィルムノワールだ。こんな映画をボクもいつか撮ってみたかったが、いまだに撮れていない。
篠田さんより一歳下で27歳の大島渚のデビュー作、『愛と希望の街』(59年)のタイトルで揉めた話も面白かった。元は『鳩を売る少年』だったが、松竹がそれでは地味で客が入らないと変更してしまったのだ。鳩の帰趨本能を利用して鳩を売ってはまた手元に帰らせて他の客に売って生きる少年と、当時の格差社会を撃つ力作だ。大島は表現の自由を妨げる会社には事あるごとに反発していたそうだ。あの人らしい話だった。
深作欣二も今村昌平も佐藤純彌も、映画の夢に向かって走っていた助監督時代の失敗談になると、誰もが、見事に青年の顔に戻っていた。この続きはまた次号で。
井筒 和幸
1952年奈良県生まれ。奈良県奈良高等学校在学中から映画製作を開始。8mm映画『オレたちに明日はない』、卒業後に16mm映画『戦争を知らんガキ』を製作。1981年『ガキ帝国』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降、『みゆき』『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『宇宙の法則』『突然炎のごとく』『岸和田少年愚連隊』『のど自慢』『ゲロッパ!』『パッチギ!』など、様々な社会派エンターテイメント作品を作り続けている。映画『無頼』セルDVD発売中。