2024年
9月号

神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~(53)前編 井上靖

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西宮球場で体感した阪神間モダニズム…
神戸・夙川で育んだ視座は西域へ

神戸や西宮から〝西域〟まで

1950年、小説「闘牛」で芥川賞を受賞した作家、井上靖(1907~1991年)は、神戸や西宮など兵庫県とのゆかりが深い作家だった。作品のなかに随所に「三宮駅」などお馴染みの地名が登場。そんな〝地元愛〟豊かな親しみ深い作家である一方、ノーベル文学賞候補の筆頭として常に名前が挙がる世界的視座を持つ〝ワールド・ワイド〟な作家だった。
芥川賞受賞作「闘牛」は、1949年、「文学界」(12月号)に掲載された短編。この中で描かれている舞台「阪神球場」とは、阪急ブレーブスの本拠地だった「西宮球場」のことだ。
大阪と神戸のちょうど中間に位置する夙川で暮らしていた井上にとって、京阪神は庭のようなもので、彼は小説の舞台としてこの地域を好み〝神戸っ子〟がよく知る地名や名所などを題材に作品群のなかに登場させてきた。
この、市民生活に根ざした「闘牛」のような小説を手掛ける一方で、彼が取り上げるテーマはやがて世界へと視座を広げていく。
彼の描くテーマの大きな幹のひとつは中央アジアから西アジア、インドにまで至る壮大な〝西域〟だった。
遣唐使の壮絶な人生を描いた「天平の甍」(1957年)、中国・北宋の時代をしたたかに生きる人々を描いた「敦煌」(1959年)などの歴史小説で、壮大な「西域小説」と呼ばれるジャンルを開拓し、井上は作家としての裾野を広げていく。
同じく西域にこだわり、描き続けた作家として、井上の盟友、司馬遼太郎がいる。
井上は毎日新聞学芸部の、司馬は産経新聞文化部の記者として、ともに美術を担当していたことからも気が合い、ともにライフワークにしていたテーマをタイトルにした共著「西域をゆく」(1998年、文春文庫)を刊行している。
1975年、井上を団長に、司馬や水上勉、庄野潤三ら日本の作家代表団が中国を訪れた。帰国後、井上と司馬が西域への思いを語り合い、まとめたものが「西域をゆく」だ。

新聞記者から作家デビュー

井上は1907年、北海道(現在の旭川市)で生まれた。
父は軍医で転勤が多く、従軍医として韓国へ赴任した際、井上は一人、家族と離れ、母の実家があった静岡県で祖母に育てられる。
沼津の高校から金沢の高校に転校し、詩の創作や柔道に没頭する。
1930年、九州大学に入学するが2年で中退し、京都大学へ。
1935年、京大在学中に結婚し、翌1936年、大学卒業後、当時、通称〝大毎(だいまい)〟と呼ばれていた現在の毎日新聞大阪本社に入社。学芸部記者となった井上は「猟銃」や「闘牛」などを次々と執筆する。
「猟銃・闘牛」(新潮文庫)には記者時代に書かれた三篇が収録されている。
「闘牛」の主人公、津上のモデルは、井上と〝大毎〟同期入社の小谷正一である。
後に、戦後を代表するイベント・プロモーターとして名を馳せる小谷は、毎日新聞系列の夕刊紙「新大阪新聞」の編集局長として、新聞拡販のために1947年、西宮球場で闘牛イベントを企画する。
四国の愛媛・宇和島の伝統行事「闘牛」を都会で再現しようという〝興行師〟小谷の野心的な試みだった。終戦直後、「闘牛」は残酷だとしてGHQにより一時中断されていたこともあるリスクの高いイベントを、小谷は〝剛腕〟を発揮し開催までこぎつける。
それが、いかに無謀なイベントだったか。小説の中にそれを象徴するような津上のセリフが出てくる。
《「知っています。新聞社としても、もともとこの仕事は賭博です」》
「闘牛」開催直前の当時の三宮駅前の描写も臨場感がある。
《牛行列の記事も写真も支障なく到着し、それらがすでに仮刷り三分の一を埋めていた。三宮駅前で牛行列が出発する時撮った写真の取扱いが、少し眼をむきすぎた嫌いはあったが、大会を明後日に控えたこの際、紙面がいくら派手であろうと、派手すぎるというわけはなかった》
同年1月、この前代未聞のイベントは3日間連続で「西宮球場」で開催された。
井上は最終日に球場を訪れている。「井上靖全集」の中で「闘牛について」と題し、その様子を記している。
《一日私も闘牛見物に会場へ出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に祟られてその日の入場者は極めて少なかった》
と始まり、こう続く。
《スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。
その会場に立てこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げてきた。恐らく西宮球場が、あのような一種異様な悲哀感にぬれ、ふしぎな緊張感に満たされたことは後にも先にもないことだと思う》
そこで井上はこう決意する。
《私はその日の会場の詩を書きたいと思った。その会場の悲哀は、闘牛そのものから来るものではなく、終戦後一年半の、あの時代の日本が、日本の社会が、日本人のすべてが、意識すると、しないに拘らず、だれも持っていた悲哀に他ならなかったから》
神戸、西宮…。新聞記者として暮らしたこの兵庫の地から芥川賞作家は生まれた。
=続く。
(戸津井康之)

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