7月号
有馬温泉歴史人物帖 ~其の拾六~ 雪村友梅(せっそんゆうばい) 1290~1347
中世の有馬には多くの高僧が訪ねておりますが、雪村友梅もその一人でございます。
彼は越後白鳥(しらとり)の生まれですが、ここは現在の長岡市なので入船亭扇辰師匠と同郷ですな。ちなみに、吟醸純米酒「雪村友梅」の酒蔵は新潟市です。幼い頃からかなり利発で、その神童ぶりに東大寺を再建して小野の国宝・浄土寺を開いた傑僧、重源(ちょうげん)の子では?という伝説も。12歳の頃に鎌倉に出て渡来僧、一山一寧(いっさんいちねい)に学ぶとその才覚が認められ、寒い頃に咲く花から友梅の名をいただきます。その後はエリートコース、15歳の頃に比叡で得度し、18歳で海の向こうへ。
中国、当時の元に着くと、一寧の弟分の叔平和尚に歓待され順風満帆…と思いきや、あまりにも語学に通じていたためか、日本からの密偵では?と疑われて捕らえられます。製薬会社の社員が昨年から拘束されていますが、「反スパイ法」って当時からあったのでしょうかね。で、処刑される寸前で命は助かったけど、その後もダラダラと長安や成都などへ流されます。余談ですが、初めてライチを食べた日本人は友梅だったかもしれません。
やっとこさ赦免された時はなんと36歳!囚われの身の間に元の仏教界で一目置かれる存在になり、有力寺院から引く手あまたで3年ほど留まって、彼を助けようとして獄死した叔平和尚の菩提を弔い帰国します。
日本に戻ってからは、鎌倉で偶然再会した母への孝養を尽くした後、信州、都、豊後に寺院の住持として招かれ、前々回ご紹介した赤松則祐(そくゆう)の父、円心に懇願され播磨の法雲寺の開祖となるなど僧侶として大活躍、さらにすぐれた漢詩で五山文学の担い手にもなりましたが、1346年に脳卒中を発病すると治療を拒んで御仏に…。
そんな友梅の有馬来湯は入滅の2年前、55歳の時で、宿泊所、無垢庵を再興しています。
さて、前回は講談「西行鼓ヶ滝」をご案内しましたが、そもそも講談とは赤松氏の末裔と深い関わりがございまして、赤松法印が徳川家康に『太平記』を読み聞かせたのが起源で、赤松青龍軒らが大衆に広めたとされています。草創期の講談は赤松パワー炸裂!で、「西行鼓ヶ滝」で則祐の歌が西行の歌になったのもその影響かも。
そして実は、その赤松氏の実質的な始祖の円心がまだ田舎武士だった頃、彼の出世を見抜いたのが元へ渡る前の友梅なんです。円心はその期待に応えようと奮闘、赤松氏を繁栄させたと伝わります。友梅なくして円心なく、円心なくして法印なく、法印なくして講談なく、講談なくして有馬の知名度向上に貢献した名作「西行鼓ヶ滝」はなかったかもしれません。