6月号
連載 Vol.2 六甲山の父|A.H.グルームの足跡
日本、そして神戸へ
アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)は3人きょうだいで、兄と姉(妹?)がいたようだが、1838年生まれで8年上の兄、フランシス・アーサー・グルーム(Francis Arthur Groom)の存在なくして来日はなかっただろう。
さて、19世紀になると、イギリスは植民地から搾取する重商主義を、経済的優位性で富を獲得する自由貿易主義へと転換するようになる。そんな中で商人たちは市場を広げていったが、特に東アジアは注目され、欧米列強と競って野心的に清へ進出、日本はその延長上に位置づけられていた。その頃にスエズ陸上ルートの開設や東アジアへの定期航路の就航など交通が発達し、いわゆるベンチャー型の若い商人も一旗揚げるべく東アジアへ打って出たが、フランシスもその一人であったようだ。
彼は1860年9月、開港間もない長崎へ渡航し、リバプール出身のロバート・アーノルド(Robert Arnold)と共同でアーノルド商会を設立した。翌年には長崎居留地大浦地区22番区画の借地権を得ている。そして1862年にアーノルド商会は解散し、フランシスは同い年のスコットランド人、グラバー邸で有名なトーマス・ブレイク・グラバー(Thomas Blake Glover)のパートナーとしてグラバー商会に参加する。グラバー商会はアーノルド商会の業務を継承するとともに、講談の「英国密航」にも登場する大企業、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としても活動した。長崎で実績を重ねたフランシスはグラバー商会のナンバー2に、そして1865年にはその上海支店代表となった。
一方、弟のグルームは、一説によると1859年にシンガポール、その翌年に長崎へと渡って、1862年より兄が共同起業したグラバー商会に勤務していたという。しかし、1859年だとグルームはまだ13歳だし、1861年にロンドンの西のマールボロカレッジ入学したことは記録から明らかなので、この説は誤りだろう。
そのマールボロカレッジの同窓名簿には、グルームは1864年夏に卒業し、その後は日本・長崎の商人になったと記されている。兄に憧れて自ら希望したのか、それとも兄に乞われてなのか動機は不明だが、どうやらグルームはマールボロカレッジを出た後に祖国を離れ、まず兄のいる長崎へやって来たと思われる。
その後、開港とともに設立されるグラバー商会神戸支店のスタッフとして赴くことになったようなので、来神は1867年という見解もあるが、神戸が開港した1868年と考える方が自然だ。グルーム自身はその年の4月と回顧しているが、新聞の旅行者情報では6月6日に神戸へ入港したコスタリカ号の欄に兄弟揃って名前が載っている。ちなみにその記事には「Godai」の名もあるが、これは五代友厚のようだ。五代はグラバーと懇意だったので、船内でグルーム兄弟と杯でも傾けたことだろう。また、9月に兄とコスタリカ号で長崎から直接、あるいはグラバー商会大阪支店勤務を経て神戸へ移ったとも伝わっている。
時期については諸説あるが、いずれにせよ若きグルームが降り立った時、神戸が開港間もない新天地だったことは間違いない。