6月号
神戸で始まって 神戸で終る ㊽
昨年、本誌の10月号で、東京国立博物館で開催された『寒山百得展』についての紹介文を書いたが、先月5月25日より、横尾忠則現代美術館に、東京展で発表された作品がそのまま開催されることになりました。
東京では、連日沢山の観客を集めました。特に、外国からの入場者が多かったことに、美術館も驚かれたようです。海外にも情報が流れたのか、中にはこの展覧会に合わせて日本に来たという外国の人もいたようです。中には、海外のコレクターで、購入を希望した人もいました。
この展覧会は、従来の僕の作風から一変した様式に驚いた人もいたようです。ここ神戸でも、今までとは全く違うタイプの作品に触れて、「おや?」と思われる方も多いと思います。僕の作品に慣れた方は多分、そのスタイルの異変に気づいて、中には戸惑う方もいらっしゃるかもしれませんが、僕自身も、「まさか!」と思うような作品になってしまったことに、我ながら不思議だな?と思ってしまいました。「気がついたらこんな絵が描けちゃいました」と言うしかありません。自分が絵を描くのではなく、絵自らが描いたという感じです。言い方を変えれば、作者不在です。絵は自我によって描くのですが、この寒山百得に関しては、自我の存在はかなり希薄だったように思います。
頭で描くというより、肉体が描くという感じです。アーティストというより、むしろアスリートに近いものを感じました。アスリートは、一種の瞬間芸みたいなところがあります。無になる瞬間によって、アスリートは凝縮した力を発揮します。今回の僕の絵も、そんな感じでできたように思います。だからほとんどの作品は、1日で仕上げています。中には、1日に3点描いた日もあります。まるで日記でも書くような気分で描いてきました。だから作品には描いた日付を記入しています。日付を追って見る人も多かったようです。
僕の絵は、統一した固定の様式(スタイル)がありません。同一様式の絵を2、3枚描くと、もう飽きてしまうのです。同じスタイルの絵を描き続けるのが、一般的な画家のスタイルですが、僕にはそれができないのです。それは、頭で描くというより、その日の気分で描くので、持続した様式を展開することができないのです。これは多分に飽きっぽい性格が、そうさせるのかも知れません。つまり、飽きっぽいと同時に気が多いのです。だから、次々と異なった様式に興味が移っていくのです。
普通、画家は主題も様式も固定させることによって評価されます。バラバラのスタイルの作品は、評価の対象にはなりません。でも僕は、そういう「生き方」には興味がないのでバラバラです。僕にとってのバラバラは、自由を意味しています。評価とかコレクションの対象には興味がないのです。結果ではなく、あくまでプロセスです。プロセスそのものが、作品といえるかも知れません。また、僕の作品の大半は未完成です。描き切ってしまうことには興味はないのです。プロセスの状態が作品なので、どうしてもプロセスで筆をおいてしまうので、当然、未完ということになります。まあ、言葉を変えれば、未完という名の完成です。
絵を鑑賞していただく時は、何を描いているのか、ということはどうでもいいのです。観る人は、必ず、何を描いているのかと思考します。でも、僕の作品は、思考の結果、生まれたわけではないのです。「何を描いているか?」ではなく、「如何に描いているか」を見ていただきたいのです。絵具と筆の動きを見ていただきたいのです。「ああ、絵具がかすれている」とか「絵具が盛り上がっている」とか「筆が走っている」とか「筆がかすれている」とか「ふるえている」とかを、できるだけ画面に近づいて見てもらいたいのです。そこに画家の感情が、自然に表現されています。
主題(テーマ)は、一種の借りものです。だから、寒山拾得を描こうとしているのではなく、仮に、寒山拾得を描いているに過ぎないのです。意味などないのです。でも大方の人達は、そこに意味を求めます。そして意味を語ろうとします。意味とは、知性と感性です。そんなものは僕には必要ないのです。何だっていいのです。何に見えたっていいのです。と、こんな風に言うと、逆に、見る人は考え込んでしまうかも知れません。
例えば、食べ物は、美味しいものは美味しいでいいのです。そこに意味などありません。だから僕の絵について考えることは意味のないことです。知性は必ず意味を求め、物事を分別します。いいとか、悪いとかに。そんなことする必要ないのです。無分別でいいのです。だけど知性に憧れているから、皆、分別してものを見るのです。これって間違っているのです。
さて、この『寒山百得』の最後に描いた、右頁の絵を見てください。この展覧会をキュレーションした小野尚子さんは、最後の作品に対して、「ここに至って寒山拾得の姿は、もはやぼんやりとして、顔の判別もつかない影のようになっており、まるで背景の黄色に溶け込んでいくかのようです。2019年から横尾さんの中に居続けた寒山と拾得は、満足したのでしょうか。ようやく明るく神々しい世界へ戻っていくかのようです」と語っています。そうです、このような見方でいいのです。学芸員にしては、美術史的な文脈で小野さんは見ていません。
絵は、描く方も見る方も自由で、勝手に見ていいのです。僕の今回の『寒山百得』展を美術史的文脈で見ると理解できません。ある意味で、学芸員の知性に対する反逆です。頭から「知」を廃して、空っぽになって見てください。そうすると、見えないものが見えてくるかも知れません。
美術家 横尾 忠則
1936年兵庫県生まれ。ニューヨーク近代美術館、パリのカルティエ財団現代美術館など世界各国で個展を開催。旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞、東京都名誉都民顕彰、日本芸術院会員。著書に小説『ぶるうらんど』(泉鏡花文学賞)、『言葉を離れる』(講談社エッセイ賞)、小説『原郷の森』ほか多数。2023年文化功労者に選ばれる。
横尾忠則現代美術館(神戸市灘区)にて
『横尾忠則 寒山百得』展開催中。2024年8月25日(日)まで。
横尾忠則現代美術館
https://ytmoca.jp/